奥野君の言っているアイツ、というのはもちろん夫の岳紘さんのことだ。私の初恋は岳紘さんで、学生の頃も、それは誰もが知っていることだった。当の本人の岳紘さんも含めて。
そういえば奥野君にも何度も岳紘さんの良さを何度も話し惚気てしまっていた気もする。彼は毎回笑って聞いてくれていたけど、今考えると相当恥ずかしいものがある。
「やっぱり、って……どうしてそう思うの? あの頃から何年も経ってるのよ、別の人を好きになっている可能性だってあるのに」
「無いよ、そんなの。雫先輩はアイツしか見えない、そういう呪いにかかってるんだから」
呪いとはどういうことなのか? 夫である岳紘さんは少し拗らせた初恋の相手、自分にとってはその程度の認識だったのだけど。
……どうやら、奥野君からするとそうではないらしい。
「結婚相手があの人なのは当たってるけれど、呪いは酷いんじゃない?」
「そうかな? 俺から見れば呪いで間違っているとは思わないけど、先輩が不愉快に感じたなら謝りますよ。でも……その結婚指輪、先輩にちっとも似合ってないね」
私の左の薬指の指輪に視線を移すと、奥野君は遠慮もなくそう言った。どちらかと言えば大人っぽい容姿の私に可愛らしいデザインのリング、夫には言えなかったが自分に似合ってるとは思えずにいた。
それをまさか、後輩の奥野君に指摘されるなんて……
「余計なお世話、ただの学生時代の後輩の貴方が口を出す事じゃないわ」
自分もそう思う、なんて言えるわけない。夫である岳紘さんが選んでくれたリングだ、輝くダイヤも決してそれが安物ではないことを証明している。彼の気持ちを……否定するような言葉は口にしたくなかった。
そんな私の気持ちを見透かされないように、必死にポーカーフェイスで誤魔化そうとする。
なのに……
「ただの後輩でしかいさせてくれなかったのは先輩の方でしょ? 俺はそんなつもりなかったのに」
「……どういう、意味?」
遠回しだが相手に気を持たせるような発言をする奥野君を、少し睨むように見据える。既婚者だと話しているのだし本気ではないのだろうが、揶揄われるのは良い気分はしない。
学生の頃よりずっとカッコよくなった彼だが、中身は随分軽くなったのかもしれない。私を見返す奥野君の視線が、どこかで私を試しているようにも見える。何が……言いたいの?
「まだ、分からない? それともそうやってずっと知らないふりして、あの男だけに尽くそうと思ってる? 俺知ってるよ、アイツが別の女性と会っていること」
「いま、なんて……」
嘘を言うな、と言えなかった。奥野君は私の夫である岳紘さんの顔を知っている、何度も彼と一緒に覗き見したりもしていたから。そんな奥野君が見間違えるとは考えにくい。
震える声で聞き返せば、彼は私の横髪を手で掬い唇を寄せる。ギョッとして身を引こうとするが、ニヤリと挑発的な笑みを浮かべた奥野君に負ける気がしてその行為に耐える。
「……続き、聞きたいですか? 雫先輩がもっと教えて欲しいってお願いしてくれたら考えますよ」
「生意気ね、別にその程度の事どうだっていいわ」
夫の岳紘さんがしないようなその行為に声が上擦りそうになる。奥野くんだってこんな気障な手を使うような子じゃなかった、それなのに……
悔しい、慣れない男性との距離に私の方が不利だと嫌でも気付かされる。
「そうは見えないけど、相変わらず負けず嫌いですね。そういうとこ、変わってなくて嬉しいけど」
奥野くんの意味深な笑みに背筋がゾクッとした。怖い訳じゃない、ただなんとなくその言葉と瞳の奥に秘められた何かが気になった。
それを知りたいと思うのに、これ以上興味を持ったらいけないような……
このままではいけないと奥野くんに掬われた髪を強引に取り戻す、彼の思い通りにこんな雰囲気のまま会話を進めてやる必要なんてないのだし。
「そういう紛らわしい態度、奥さんに悪いと思わないの?」
「……そうですね、彼女がそう思わせてくれるような相手なら良かったのにね」
私の言葉に驚いた様子も悪びれた様子も見せなかった。それなのに、自分で言ったこの一言に少しだけ彼は傷ついた表情を見せた。
「あ、奥野くん……?」
「すみません、そろそろ戻らないと。もし雫先輩が俺に会いたくなったら土曜日、またここで会いましょう。それじゃ!」
止める暇もなく彼はマスターに片手をあげて店から出ていった。きっといつものことなのだろう、マスターはそんな奥野くんの様子に驚きもせず残されたコーヒーのカップを片付けていた。