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これが週末なら良かったのだが生憎週初めのことだった。
だが、だからといって週末まで待つわけにもいかず……邦夫が俊に
連絡を入れ、仕事帰りに会ってくれるようお願いすることとなった。
今日も帰宅して一人でTVを見ながらの食卓が待っているのだと
侘しく切ない思いに囚われていた俊の元へ、舅からの電話。
緊急の話があるということだった。
何事かと思いつつも自宅まで来てくれるということで、変化のない日々に
久しぶりに登場する舅に、何やら心ざわつかせつつ、俊は帰宅を急いだ。
舅は車の中で待っていたようで、自分の姿に気付いたところで
車中から出てこようとしていた。
それを見て俊は舅に駆け寄った。
「仕事でお疲れのところ、いきなり訪ねてきてすまないね」
「お義父さんこそ、暑い中わざわざ来ていただいて……ささっ、どうぞ」
俊は鍵を差し込みドアを開けると、言葉を掛けながら義父を家の中に
招き入れた。
「実は……今朝方、起きてきた娘がとんでもないことを言い出してね」
「とんでもないこと、といいますと……」
「どうやら、君とのことですったもんだした時期のことがすっかり
娘の記憶から抜け落ちているらしく、ここへ帰りたがっていて、
どうしたものかと妻とも相談したのだが……君さえよければ、あの頃のことは
黙ったまま本人の望み通りこちらへ帰らそうと思うんだが、どうだろう?
俊くん」
「お義父さん、僕はできるならずっとそう願っていたのでこちらから
お願いしたいくらいですが、その……」
「娘の記憶が永久に戻らないのか、ふとした切欠で明日にでも戻るのかは、
神のみぞ知るだからねぇ~。
記憶が戻ればその時はきっと娘は怒るだろうねぇ。
だが今回の娘の記憶障害はある意味チャンスじゃないかと思えてね。
こんなことでもなければ頑固で生真面目な娘は君のところへ帰りたくても
帰れないと思うんだ
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あぁ、今までなんとなく君に話すチャンスがなかったが、娘には
あの日どうして君が恵子さんと会っていたかという話は家内からちゃんと
話してあるので、娘には君の潔白は伝わってると思う……ってそのことも
今じゃ、忘れてるか……参ったな」
「お義父さん、話に来てくださってありがとうございます。
今からすぐに迎えに行きます」
「おぉ、有難い。
すまないね、そうしてもらえると助かるよ。
君疲れてるだろ? 車は出さずに私ので行こう。
送迎は引き受けた」
「ありがとうございます、それじゃあ、お言葉に甘えて」
こうしても桃の父親の邦夫と夫の俊は、桃と奈々子の待つ家へと夜道、
車を走らせたのだった。
「ただいまぁ~。桃、俊くんが迎えに来てくれたよ」
「まぁまぁ、俊くんお疲れのところすみませんね」
姑の康江がすぐに出迎え労をねぎらってくれる。
「お義母さん、ご無沙汰しています」
俊は小声で挨拶を交わした。
そうこうしていると、桃と奈々子が三和土に現れた。
「俊ちゃん、遅くにごめんね。
迎えにきてくれてありがとう」
桃はそう言うと奈々子の手を引いて靴を穿き、帰る準備を始めた。
自分に向けられるやさしい桃の態度と言葉に、俊は感無量になるのだった。
この幸せな時間を一日でもいい、二日間だけであってもいい、昔のように
暖かな関係でいられる時間が訪れた奇跡のような時間。
このひと時を、ただただ感謝する俊なのだった。
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奈々子は祖父が父親を迎えに出かけた後で、祖母に呼ばれ、あるお話を聞かされていた。
自分の母親がある一定の期間の記憶をなくしてしまっていること。
そして父親である俊と別居していたことなども忘れてしまっていること。
だから別居していたことをしばらくの間母親には黙っててあげてねと
言われている。
混乱させてしまってお母さんが辛くなると困るからね、と。
「奈々ちゃん、おばあちゃんとお約束できる?」
「うん。だけど……もしもお父さんと暮らしてなかったことをお母さんが
思い出したらどうなるのかなぁ」
「また、このお家に帰ってくるでしょ、たぶんね」
「奈々子はお父さんと一緒に暮らしたい……」
「じゃぁ、お母さんが思い出さないうちは内緒にしとこうね。
しー、だよ」
「うん、分かった。しー、ね」
こんな風に用心して、奈々子にも別居していたことについて母親の桃には
内緒にすることとして、康江から戒厳令が敷かれていた。
普段は月に二度ほどしか会えない父親の迎えで母親と帰っていく
奈々子の表情は、喜びで明るく輝いているのが見て取れた。
「お父さん、送ってくれてありがとう。
帰り道、気をつけてね」
「お義父さん、ありがとうございました」
「いや、俊くん宜しく頼みます。
桃、奈々子、また遊びにおいで」
俊や桃、そして奈々子の見送りを背に受けて邦夫は車に乗り込む。
「俊ちゃん、疲れてるのにごめんね。ありがとう。
お母さんがお魚と豚肉持たせてくれてるからすぐに簡単な食事作るわね」
「ああ、楽しみだ」
久しぶりの妻の手料理だと思うと俊は本当に楽しみで心が弾むのだった。