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妻や娘と別居するようになってからは、会社の帰りに弁当を買って帰ったり、
スーパーで刺身やお惣菜を買ったりと平日自炊することはあまりない。
土日は簡単なモノで自炊してはいるが。
時間も食材も限られた中での、焼き魚と豚肉と茄子を焼くという簡単なもの
だったが、自分のために誰かが……世話を焼いてくれるというのは、有難いもの
だなぁ~と実感した。
孤独感に囚われた寂しいばかりの日々に、いきなり思いもかけずパッと明るく
暖かい光に照らされたような気分である。
妻の記憶が戻ればあっという間に失くしてしまう危うい至福のひと時で、
期間限定になるかもしれないことが少し哀しい。
それでも、この時間が無かったほうが良かったとは思えない。
薄氷を踏む思いではあるが、だからこそ、心から堪能しようと
俊は強く思うのだった。
何もかもが急な展開で、うっかり布団が揃ってないことに気付かず
俊は焦ったが今が夏でよかった、そう思うのだった。
普段はダブルベッドを使っているのだが真夏はここのところ毎年和室の
畳の部屋を使っていて、実は昨夜も和室に薄い敷布団を敷いて寝ていたのだ。
今夜のところはそこへ奈々子を寝かせバスタオルを掛けてやった。
そして自分たち夫婦はダブルベッドを使うことにした。
自分と娘の布団がないことに桃がいつ気が付くとも限らない。
何と説明すればいいのか。
明日姑か舅に連絡をして相談しないと、などと、俊の脳内はせわしなく、
あれやこれやと考えなければならないことに囚われ続けた。
今のところ突っ込みが桃からはない。
おそらく記憶が抜け落ちたそのことで手一杯だからだろう。
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「ねぇ、私の記憶戻ると思う?
なんかぁ、子供の一番可愛い盛りの頃のことを忘れるなんてすごく残念だよ」
「だいじょうぶだよ、俺が側にいる。
あまりくよくよしないで奈々子と3人の生活を楽しもう。
そのうち、自然に記憶なんて戻るさ」
「そうよね。俊ちゃんがいるから大丈夫よね。
私、俊ちゃんみたいなやさしい人が旦那さんでほんと良かった」
「俺も、桃が奥さんで良かったよ」
「私たち、ラブラブだね、ふふっ」
そう言うと、桃が俺の腕に顔をくっつけてきた。
『幸福な時間よ、するりとこの腕から抜け落ちないでくれ』
そう願いながらその夜、俊は眠りについた。
◇ ◇ ◇ ◇
翌朝早くに俊に舅から電話が入った。
隣で寝ている桃を気遣い、そっと俊はリビングへと移動した。
「おはよう、朝早くにすまない」
「いえ、もう目が覚めていたので大丈夫です」
「昨夜はバタバタしていて気が回らなかったんだが、娘や孫の洋服やら
布団やら、他にこまごましたもので気がついたものを取り敢えず康江と一緒に
そちらへ持って行こうと思ってね。
私も会社に行かなきゃならないのでちょっと早いが今から持って行って
いいだろうか」
「助かります。実は昨夜布団が不足していることに僕も気が付いて
ご連絡しなきゃな、なんて思っていたところです」
電話での遣り取りを終え、舅、姑が荷物を持ってきてくれた時、桃と奈々子はまだ寝ていた。
舅が出社するのを見送ると、姑が持ってきた食材で朝食の用意をしてくれ、
俊も朝食を終えてそのまま出社した。
今日、明日としばらく午前中は姑が家に来てくれるという。
結婚前に妻の実家近くに住むと言うと『しょっちゅう娘や孫の顔を見に来て
うっとおしいからやめておけ』とアドバイスをくれた先輩もいたが、
こうなってみると、妻側の実家近くに居を構えたのは正解だったなと思う
俊だった。
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その週の週末の土曜のこと。
その日もブランチと夕飯という2食コースで、18時という早い夕食だった。
「俊ちゃん、私、急いで片付けするから奈々子を
お風呂に入れてくれないかなぁ」
そう桃に言いつけられ、少々、俊は焦るのだった。
離れてくらしていた娘と一緒に風呂に入ったことなどなかったからだ。
自分はいいが、幼児とはいえ、すでに3才児とはいえない年齢だ。
娘が恥ずかしがったり嫌がったりしたら、一人で入らせて着替えを手伝う程度に
しておこうと思い、娘に訊いてみることにした。
「奈々子、お風呂どうする?
お父さんと一緒に入るか、一人で入るか、好きにしていいよ。
着替えは手伝ってあげるからね」
「一緒に入る。はじめてだね、むふふっ」
「そっか。じゃあ、お父さんの背中洗ってな……」
「時々お母さんの背中洗ったりしてるから、だいじょうぶだよ~。オッケー」
こんな風にして楽しい親子の入浴タイムを過ごし、この後は桃が奈々子に
添い寝をし、早々と寝かしつけた。
そしてこの後、桃も風呂場へと消えた。
リビングでTVニュースを見ていると桃が風呂から上がってきて
麦茶を入れたコップを持って俺の前に座る。
「何見てるの? これから何かいい番組でも始まるの?」
「いや、ニュースをなんとなく見てただけ……俺、あまりドラマとかは
見ないからね」
「そう? 前からそうだったっけ?」
「そうだね、全然見ないってわけじゃないけど、社会人になってからは
大河ドラマを見る程度かな。
まっ、気にいった作品の時だけな。大体は将棋と囲碁だな」
「そっか、あたし、そういうのも覚えてないんだぁ~。落ち込むぅ~」
「気にしなくていいよ。社畜なんて時間がなくてみんなこんなもんさ」
「俊ちゃん、今、私たち二人きりだね」
「ん? 奈々子が……」
「ううんー、もう。起きてる人間のことよ」
「あぁ、そうだね、そっか」
「どっちが早くお布団に入れるか競争しよっ」
「ヒェ~ッ」
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