テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
「なんで、凛さんが死んだ人の味を知ってるの?」
麗奈の声は、甘かった。
甘いまま、刃物のように食堂を横切った。
蒼真が、新聞を下ろした。
お義母さまの箸が、宙で止まった。
陽翔はまだ、涙をこぼしたまま卵焼きを見ていた。
「ねえ。前の奥さんの卵焼きの味なんて、なんであなたが知ってるの? 会ったこともないんでしょ?」
麗奈は、ゆっくりとテーブルを回ってきた。
ローズの香水が、焼いた卵の匂いをかき消していく。
全員の目が、私に集まっていた。
「奥様。少々、お待ちいただけますか」
私は頭を下げ、玄関に掛けてある陽翔の幼稚園バッグを取りに行った。
底から、青い連絡帳を出す。
食堂に戻り、そのページを開いて、麗奈の前に置いた。
「坊ちゃんのお弁当の支度をしようとして、こちらを拝見しました。去年の連絡帳です」
十月二十八日。
甘酒を入れた卵焼きなら食べますので、お弁当に入れています。
「前の奥様が、先生に書かれたものです。坊ちゃんが召し上がらないのが心配で、真似をいたしました。……出過ぎたことを、申し訳ございません」
麗奈は、連絡帳を見下ろした。
ネイルの先で、ページの端をつまむ。
「……ふうん」
それきり、言葉が続かなかった。
責める理由が、連絡帳の上で消えてしまったのだ。
お義母さまが老眼鏡をかけ、身を乗り出して連絡帳をのぞきこんだ。
長いこと、そのページを見ていた。
「甘酒」
小さく、つぶやいた。
「……陽翔が食べるなら、それでいいわ。佐伯さん、明日からもそうなさい」
「かしこまりました、大奥様」
陽翔が、卵焼きの残りを口に入れた。
三切れ、全部。
麗奈は何も言わずに、自分の席に戻った。
椅子を引く音だけが、少し大きかった。
私は空になった陽翔の皿を下げ、流しの前で、手袋の手をそっと胸に当てた。
真似をいたしました。
口では、そう言った。
真似ではない。
あれは本当に、私が書いたものだ。
*
朝食の片づけを終えたころ、パントリーの戸口に麗奈が立った。
「凛さん」
声は、もう甘くなかった。
「連絡帳、勝手に見たのね」
「坊ちゃんのお弁当箱を出すときに、挟まっておりましたので」
「言い訳はいいの」
麗奈は、棚の甘酒の瓶に目をやった。
ネイルの先で、瓶の蓋を、こつんと弾く。
「お義母さまがいいって言ったから、卵焼きは許してあげる。でも、覚えといて。この家で、前の奥さんの真似をしていいのは、私が許したことだけ」
「かしこまりました、奥様」
麗奈は、パントリーの扉を半分閉めて、隙間から私を見た。
「あなた、私が見てないと思ってるでしょ。見てるからね」
扉が閉まった。
甘酒の瓶の中で、白い澱が、ゆっくりと沈んでいった。
*
その日、幼稚園から戻った陽翔のお弁当箱は、空っぽだった。
ごはんの一粒まで、なかった。
今年の連絡帳には、担任の先生の、丸い赤ペンの字が増えていた。
今日はお弁当、全部食べました! 卵焼き、最後に大事そうに食べていましたよ。
私は流しの前で、空のお弁当箱を洗った。
水の音で、鼻をすする音を消した。
*
その日の夕方、私は温室へ向かった。
洋館の裏手、芝生の端にある、白い鉄枠のガラスの温室。
扉を開けると、湿った土と緑の匂いが、むっと顔を包んだ。
奥の棚の下に、それはあった。
月下美人の大鉢。
肉厚の平たい葉が何本も重なり合い、天井のほうへ伸びている。
この鉢の下に、私の缶が眠っている。
浮気の写真。へそくり。印鑑。
いつか陽翔の手を引いてこの家を出る日のために、私が埋めたものだ。
「家政婦さんかい」
背後で、しわがれた声がした。
振り向くと、温室の入口に、手拭いの鉢巻きをした老人が立っていた。
日焼けした顔。紺の作務衣。腰に、剪定鋏。
源さんだった。
源田源三。この家の庭を、三十年守ってきた庭師。
私が嫁いできた日、黙って勝手口の脇に沈丁花の鉢を置いてくれた人。
「……佐伯と申します。お料理に使うミントを、少しいただきに」
「ん」
源さんは、それ以上聞かなかった。
私は入口の右手、三段目の棚の端に手を伸ばした。
ミントの鉢は、いつもそこにある。葉を三枚、指で摘んだ。
摘んでから、背中が冷えた。
どこにあるのか、聞かなかった。
源さんの目が、私の手元を見ていた。
皺に埋もれた目が、一度だけ、ゆっくりとまばたきをした。
それでも源さんは、何も聞かなかった。
ジョウロを提げて、月下美人の鉢の前にしゃがみこむ。根元に、ゆっくりと水を注いだ。
「この花は」
水の音にまぎれて、源さんがつぶやいた。
「前の前の奥様が、植えたもんだ」
紗季さん。
蒼真の最初の妻。陽翔を産んだ人。四年前、洋館の浴室で亡くなった人。
私は、会ったことがない。
この家には、紗季さんの写真が一枚もなかった。アルバムからも、廊下の額からも、きれいに消えていた。陽翔の部屋にさえ。
私がこの家に来たとき、この鉢だけが温室に残されていた。誰も世話をしなくなった鉢に、私が水をやり、肥料をやった。
陽翔を産んだ人の、ただ一つ残った手の跡のような気がしたから。
「年に何べんか、夜にだけ咲く。一晩で、しぼむ」
源さんは立ち上がり、腰を叩いた。
「前の奥様が、よう世話しとった。……今は、わしがやっとる」
前の奥様。
私のことだ。
源さんは、ジョウロの口を軽く振って、雫を切った。
「花は、嘘をつかねえ。水をくれた人の手を、覚えとる」
それきり、私の顔を見ないまま、温室を出ていった。
*
夜の十時。
家じゅうの灯りが、和館の一つを残して消えた。
私は懐中電灯と厨房の小さなスコップを持って、温室へ戻った。
月下美人の大鉢は、重い。
両手で縁をつかみ、少しずつ横へずらす。鉢の底の跡が、土の上に丸く残った。
その真ん中を、掘った。
十センチ。二十センチ。
スコップの先が、硬いものに当たった。
錆びかけた缶の蓋だった。
陽翔が二歳の誕生日にもらったクッキーの、青い缶。
土を払い、蓋を開ける。
ビニール袋の中に、輪ゴムで留めた一万円札の束。三十万円。陽翔と二人で、最初のひと月を暮らすつもりだったお金だ。
印鑑。小さなUSBメモリ。家事ノートを全部写真に撮って、入れておいたものだ。
そして、茶封筒。
封筒の中の写真を、一枚だけ出した。
ホテルの前で、蒼真の腕に、麗奈の腕がからんでいる。
日付は、去年の九月。
息を、長く吐いた。
まだ、ここにあった。
誰にも見つからずに、半年、私の帰りを待っていた。
印鑑を、手のひらにのせてみた。
役所に届けてある、私の実印。この家を出るとき、これだけは置いていけないと思って埋めたものだ。
この家で、私が失くしたものは多い。名前も、顔も、息子も。
けれど、自分で埋めたものだけは、私を裏切らなかった。
缶を胸に抱えて、穴を埋め戻そうとしたときだった。
スコップの先が、もう一度、硬いものに触れた。
私の缶よりも、ずっと深いところだった。
指で土をかき分ける。冷たい金属の角が、爪に当たった。
もう一つ、缶がある。
私は、こんなものを埋めていない。
指先で、角をなぞった。
ざらりとした錆の手ざわり。私の缶よりも、ずっと古い。
前の前の奥様が、植えたもんだ。
源さんの声が、耳の奥でよみがえった。
そのときだった。
ガラスの向こうの暗がりから、匂いが流れてきた。
甘くて、すうっと鼻に抜ける匂い。
ハッカ飴。
砂利を踏む足音が、近づいてくる。
私は懐中電灯を消した。
暗闇の中で、古い缶の角に土をかぶせ、その上に、もとの土を押し戻した。
足音が、温室の扉の前で止まった。
コメント
1件
わあ…この回、すごく沁みました…。凛さんの連絡帳で切り返す場面、ぞくっとしました。“真似ではない。あれは本当に、私が書いたものだ”の一文で全てが反転する感じ…!源さんの「花は嘘をつけえ、水をくれた人の手を覚えとる」が優しくて泣けそうでした。最後の古い缶とハッカ飴の匂い…続きが気になって眠れません。凛さんの孤独な戦い、しっかり応援してますね🌷