テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
温室のガラス戸が、きい、と開いた。
私は棚の下の暗がりに、膝を抱えてうずくまっていた。
胸に、青い缶を抱いたまま。
懐中電灯の光が、通路を舐めていく。
鉢。棚の脚。濡れた床。私の爪先のほんの手前で、光が止まった。
ハッカ飴を噛み砕く音がした。
「……ええ、旦那。いま見回りです」
堂島の声だった。
スマートフォンを耳に当てているらしい。
「家政婦ですか。おとなしいもんですよ。部屋の灯りも十時には消える。事故のことは、何も言わねえ。ええ、なんにも覚えてねえみたいです」
光が、ゆっくりと天井のほうへ逸れた。
「わかってますよ。目は離しません。……その代わり、旦那、例の件も頼みますよ」
足音が遠ざかった。
ガラス戸が閉まり、砂利を踏む音が、ガレージのほうへ消えていく。
私は、しばらく動けなかった。
見張られている。
蒼真は堂島に、私を見張らせている。
例の件、と堂島は言った。
金のことだろう。あの男は、金でしか動かない。あの夜のブレーキも、五百万で。
駅のロータリーで、私のために車のドアを開けた太い指を思い出した。
爪の間の、落ちない機械油。あの指が、いまはスマートフォンを握って、私の部屋の灯りが何時に消えるかを報告している。
ずらしたままの大鉢が、暗がりに黒くうずくまっていた。
あの光が、あと一メートル右に寄っていたら。
私は穴を埋め、鉢を元の位置に戻し、缶をエプロンの下に入れて温室を出た。
缶は、その夜のうちに、床板の下の家事ノートの隣に寝かせた。
*
「凛さん、お風呂は和館の檜のほうにして。毎晩九時に沸かしといてね」
次の日の夕方、麗奈がそう言いつけた。
「洋館のお風呂は、私、使わないから」
「かしこまりました。洋館の浴室は、お掃除だけでよろしいですか」
麗奈は、一瞬、顔をしかめた。
「掃除もしなくていいわよ。あそこ、気持ち悪いの」
それだけ言って、ネイルの手をひらひらと振った。
洋館の二階の、いちばん奥の浴室。
四年前、紗季さんが亡くなった場所だ。
私がこの家にいた三年間、あの浴室を使う人はいなかった。蒼真も、お義母さまも。私だけが月に一度、黙って掃除をしていた。
亡くなった人の場所を怖がるのは、珍しいことではない。
けれど、気持ち悪い、と言った麗奈の顔に浮かんだのは、怖さとは少し違うものに見えた。
その夜の九時、私は和館の檜風呂に湯を張った。
檜の香りが、湯気と一緒に脱衣所までのぼってくる。麗奈は、湯の温度を指先で確かめてから、「ぬるい」とだけ言って戸を閉めた。
湯を足し終えてから、私は洋館の二階へ上がった。
廊下のいちばん奥の、白い扉。
ノブを回した。
動かなかった。
鍵が、かかっていた。
私がいたころ、この扉に鍵がかかっていたことはない。
厨房の壁の鍵掛けには、家じゅうの合鍵が並んでいる。その中に、浴室の鍵もあったはずだ。
一階へ下りて、鍵掛けを確かめた。
蔵の鍵。温室の鍵。ガレージの鍵。
浴室の鍵のフックだけが、空いていた。
誰も使わない浴室に、誰かが鍵をかけ、その鍵を持ち歩いている。
掃除もしなくていい、と麗奈は言った。掃除をさせたくないのは、なぜだろう。
私は空のフックを、しばらく見つめていた。
*
週に二度、私は蒼真の書斎を掃除する。
午前十時。蒼真は会社。麗奈はネイルサロン。お義母さまは和館で、お茶の稽古の支度をしている。陽翔は幼稚園。
書斎の扉を、後ろ手に閉めた。
壁一面の本棚。窓際の大きな机。革のソファ。
新居祝いの夜、このソファで、二人は「澪さんに乾杯」をした。
机の上には、写真立てが一つ。
白いドレスの麗奈と、タキシードの蒼真。私と撮った写真は、ここにはもうない。
机の右の、いちばん上の引き出しだけに、鍵穴がある。
そっと引いてみた。開かなかった。私がいたころ、この引き出しに鍵がかかっていたことはなかった。
何を、しまったのだろう。
気にはなったが、鍵穴に触れるのはやめた。開かない引き出しを無理に開けた跡は、必ず残る。
私ははたきを手に、本棚の端から埃を払っていった。
右端の、上から三段目。
経営の本が、ぎっしり並んでいる。
その裏に、引き出しが一つ隠れていることを、私は知っている。
二年前の年末、大掃除で本を全部出したときに見つけた。
奥の板が一枚だけ、押すと手前に開く。蒼真は、私がそれを知っていることを知らない。
本を五冊、抜いた。
奥の板を押す。かちり、と小さな音がして、薄い引き出しが滑り出てきた。
中には、黒いUSBメモリが一本。
それから、紙の束。
一枚目を見た瞬間、指先が冷たくなった。
御影澪。御影澪。御影澪。
コピー用紙いっぱいに、私の名前が何十回も書かれていた。
ボールペンで、繰り返し。
十数枚あった。
どの紙も、同じ名前で埋まっていた。
けれど、私の字ではなかった。
私は左手で書く。
左利きの字は、横線が右上がりにならない。むしろ、わずかに右下がりになる。子どものころ母に何度直されても、直らなかった癖だ。
この紙の字は、全部、右上がりだった。
誰かが右手で、私の名前を練習した字。
束のいちばん下に、一枚だけ、違う紙が混ざっていた。
生命保険の申込書の、控えだった。
被保険者、御影澪。保険金額、二億円。受取人、御影蒼真。
署名欄に、御影澪。
練習の紙と同じ、右上がりの字で。
私は、こんな書類に名前を書いた覚えがない。
署名の横に、赤い印影があった。
御影、と丸く彫られた、どこにでもある三文判だった。
私の印鑑ではない。
私の印鑑は、去年の九月の終わりからずっと、温室の鉢の下の缶の中にあったのだから。
私の名前は、私の知らない手で書かれ、私の知らないところで、二億円の値段をつけられていた。
エプロンのポケットから、スマートフォンを出した。
練習の紙を一枚ずつ机に並べ、写真を撮る。申込書の控えも。シャッターの音は、出ないようにしてある。
手が震えて、二枚、ぶれた。
撮り直した。
旦那様は、字のお稽古も熱心でいらっしゃる。
家政婦の凛なら、そう思って、見なかったことにするのだろう。
私は違う。
これは、私の名前を二億円で売った手の、練習帳だ。
撮った写真を、画面で一枚ずつ確かめた。
右上がりの、御影澪。日付は、去年の十月。
これを、誰に見せればいいのだろう。
警察に持っていけば、こう聞かれる。あなたは誰ですか、と。
佐伯凛です、と答えれば、家政婦が主人の書斎を漁った話になる。御影澪です、と答えれば、その瞬間に私は、蒼真の目の前で、陽翔から引きはがされるかもしれない。
東雲は、医者だ。トキさんは、紹介所の所長だ。
二人とも、私の味方でいてくれる。けれど、この紙の重さを、法律の言葉で量れる人ではない。
証拠は、少しずつ集まっていく。
それを持っていく先だけが、まだ、どこにもなかった。
紙を元の順に重ね、引き出しに戻した。
USBメモリには触れなかった。何が入っているにせよ、今はまだ、そのときではない。
引き出しを押しこむ。
かちり。
抜いた本を、一冊ずつ元の並びに戻していく。
背表紙の高さを揃える。四冊目。五冊目。
最後の一冊を差しこんだとき、背後で、扉のノブが回る音がした。
振り返った。
書斎の扉が、開いていた。
ネイルサロンに行ったはずの麗奈が、腕を組んで、戸口に立っていた。
長い爪が、自分の二の腕を、とん、とん、と叩いている。
「泥棒猫がいるって、旦那様に言ってもいいのよ?」
コメント
1件
第16話、マジでゾッとした…!! 堂島の「見回りです」からすでに背筋冷えたけど、書斎の隠し引き出しから出てきた「御影澪」の名前の練習帳と保険証書には声出た😨 右上がりの字、って左手の凛さんだから気づける細かい違和感、そこがもう推理モノの醍醐味すぎる! 麗奈の「泥棒猫」の一言で終わるラストも最高にエモい…続きが気になって今夜眠れない😭💕 蒼真の企み、絶対暴いてほしいよ…!! 凛さん、応援してるからね🌸