「駿はまだ、落ちない」
駿(しゅん)は、駅前の自転車置き場で空を見上げていた。
四月の空は、嘘みたいに青い。
その青さが、駿には少しだけうっとうしかった。
大学二年。地方から上京して一年。
奨学金とコンビニの深夜バイトで、どうにか食っている。
「どうにか」――という言葉が、駿の毎日を正確に表していた。
才能は、ある。
高校の頃はそう言われてきた。
成績も、運動神経も、そこそこ。人当たりも悪くない。
――「そこそこ」から、抜け出せないまま、ここまで来てしまった。
駅のガラスに映る自分の顔を見る。
眠そうな目。
整えていない髪。
安物のジャケット。
「……俺って、こんな顔だっけ」
小さく呟いて、スマホを見る。
通知は、ない。
友達は、いたはずだ。
でも、連絡を取るほどの用事は、もうない。
講義には、出ている。
課題も、出している。
単位も、落としていない。
――それなのに、なぜか、足元が崩れている。
そんな感覚だけが、日に日に強くなる。
その日、教授に呼び止められた。
「駿くん。最近、元気ないね」
「そうですか」
「君、レポートは悪くない。でも……覇気がない」
覇気。
その言葉が、妙に重く胸に落ちた。
「……覇気って、どうやって出すんですか」
教授は、少し困ったように笑った。
「それを、君が自分で見つけるんだよ」
正しい答えほど、残酷なものはない。
駿は帰り道、ゆっくり歩いた。
駅前の喧騒と、夕暮れの混ざった匂いが、妙に落ち着かない。
四月の新生活。
周囲は笑っている。
楽しそうだ。
自分も、そこに混ざるはずだった。
――でも、混ざれない。
その理由を、駿は言葉にできない。
胸に、ひとつの重さがあるだけだ。
アパートに着くと、部屋は暗い。
蛍光灯をつけると、六畳一間の現実が戻る。
溜まった洗濯物。
インスタントの匂い。
油が落ちきらないフライパン。
駿はベッドに座り、天井を見上げた。
「なんだよ、この人生……」
口にした瞬間、
その言葉が、じわじわ身体に染みていく。
――違う。
俺の人生は、まだ始まっているはずだ。
でも、どこから始まっていいか、分からない。
深夜のコンビニは、静かだ。
レジを打ちながら、駿は考える。
本当にやりたかったことって、なんだ?
……思い出せない。
高校の頃、
「将来は?」と聞かれて、適当な答えを言っていた自分。
「そのうち考える」
「まだ若いし」
その「そのうち」が、
今だとしたら?
レジに、酔っ払った客が来る。
小銭をばら撒き、舌打ちしながら去っていく。
ありがとうも、
ごめんも、
ない。
駿は、虚しくなって、笑いそうになった。
「ああ……これが“社会”か」
吐き捨てるように、小さく言う。
バイトが終わると、駿はしばらく駅のホームに座り込んでいた。
冷たいコンクリートに手を置き、電車のライトが反射するたびに、顔をぎゅっとしかめる。
隣にはスーツ姿のサラリーマンが、スマホを見ながら笑っている。
――あいつらも、何かを失くしているはずだ。
でも、笑っている。
駿は自分の胸のざわめきに、答えを出せない。
家に戻り、部屋に倒れ込む。
スマホを手に取り、SNSを見ても、何もない。
写真も、メッセージも、通知もない。
自分だけ、世界から抜け落ちたような気がした。
「ああ、やっぱり俺、いらないのかも」
布団に顔を埋める。
外の雨が、窓を叩く音が遠くに聞こえる。
――だが、安心はしない。
胸の奥で、何かがうずく。
小さな、不安。
「これから、もっと落ちる」という予感。
翌日、大学では、些細なことがきっかけで人間関係にひびが入る。
友人の亮に、昼食を誘われた。
しかし、駿は「今日は無理」と答える。
亮は不満そうな顔をしたが、駿はそれを無視した。
昼休み、廊下ですれ違った別の友人、智也が声をかける。
「駿、大丈夫?」
駿は「うん」とだけ答え、目も合わせずに立ち去った。
その日、駿は誰とも笑わなかった。
帰宅途中、駅前で広告のポスターを見上げる。
「夢を叶えるために!」
駿は苦笑いする。
夢?
そんなもの、あったっけ?
胸に刺さる空虚感。
自分が、何かを「選ぶ権利」すらないように思えてきた。
家に帰ると、コンビニでの売上計算やバイト代の記帳が待っている。
やることだけはある。
でも、生きている実感は、ない。
駿は、ベッドに横たわり、天井を見つめた。
「……俺は、どこに行けばいい?」
その夜、布団の中で、駿は初めて泣いた。
理由は、分からなかった。
ただ、胸が押し潰されそうで、涙が止まらなかった。
目の奥に、暗闇が広がる。
何も見えない。
でも、確かに、何かが近づいている。
――穴のような、深い闇が。
駿はまだ、気づいていなかった。
その穴に落ちるのは、これが最初の一歩に過ぎないことを。
翌朝、駿の部屋には、わずかに積み重なった新聞の切れ端と、使い古したノートが散らかっていた。
部屋の隅に、深く座り込み、駿はしばらく動けずにいた。
心の中で、ぼんやりと考える。
――俺は、もう戻れないのか。
――いや、そもそも、戻る場所なんてあったのか。
窓の外では、また新しい日が始まっている。
青い空。
忙しく行き交う人々。
笑い声。
駿だけが、そこから零れ落ちたように感じた。
しかし、その落ちた感覚さえ、心地よくもあった。
――落ちる準備は、できている。
まだ、落ちることに、気づいていないだけだ。







