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「せっかくだし、みんなで温泉に入ろう」
夕食後、ひと休みをして父親が提案。
「私は1人だしゆっくりしようかしら」
母も笑顔で頷き、こさめたちも「やったー!」と盛り上がる。
だが、ひとり――みことだけが、その場で小さく肩を落としたように見えた。
気づいたのは、いるまだった。
「……なぁ、みこと。室内のほうもあるんだろ?一緒にそっち入るか?」
低い声でそっと差し出された言葉に、みことはほっとしたように小さく頷いた。
「えー? なんで?」
こさめが首を傾げると、いるまはあっさりとした顔で肩をすくめる。
「んー、ちょっと二人で話したいことあんの」
「えー怪しいなぁ」
「お前は余計なこと言わなくていい」
こさめが茶化すと、らんが軽く頭を叩いて制す。
父親はその様子を静かに眺めていたが、すぐに「じゃあ、他は露天の方に行こうか」と場をまとめ、 すち、らん、ひまなつ、こさめを連れて温泉へ向かっていく。
その背中を見送りながら、みことはまだ不安げに視線を揺らしていた。
だが、すぐ隣に立ついるまが何も言わずに背中を軽く押すと、ほんの少しだけ表情が和らいだ。
湯けむりの立ちこめる室内温泉。
木の香りが漂う湯船の中で、みことはぎこちなく湯に身を沈めた。
露わになった肌には、薄く色を残す無数の古傷。光が揺れるたび、それらは淡く浮き出して見える。
いるまもまた、太腿に白く走る古傷があった。
互いに言葉にせずとも、それを見た瞬間、胸に重く沈む感情が通じ合う。
「……やっぱり、見られたくないよな」
低くつぶやいたいるまは、そっと湯から手を出し、みことの濡れた髪を撫でた。
みことは小さく瞬きをしたあと、答える代わりにふわりと身を寄せ、いるまの頬へ柔らかく口づけを落とした。
「っ……お、おま……なんなんだよ」
思わず声が裏返ったいるまは、顔を赤らめて慌てて目を逸らす。
照れ隠しに眉をひそめるその仕草が、逆に優しさを隠せていない。
みことは湯に揺れながら、唇をゆるめた。
「……いるまくんが、今まで俺のこと……守ってくれたから… ありがとうって、思って…」
ぼそりとした声。けれどそれは、確かにいるまの胸へ届く温もりを持っていた。
いるまは短く息を飲み、頭を掻きながら「……ったく」と低く唸った。
それでも手は止められず、もう一度みことの頭を撫でた。
しんと静まり返った室内温泉。
ぽちゃん、と水音だけが響く。
みことはいるまの隣で膝を抱え、湯の揺れを見つめていた。
やがて、ぽつりと声を落とす。
「……いるまくんは、なつ兄ちゃんのこと……好き?」
その問いかけに、いるまの肩がびくりと跳ねた。
「はぁっ!? 好きなわけねぇだろ!」
反射的に、思わず声を荒げてしまう。
けれど、みことは動じない。
濡れた前髪の隙間からまっすぐに、無表情のままいるまを見つめ続ける。
その視線に射抜かれるようで、いるまは口をつぐみ、息を吐いた。
「…別に…あいつのこと、嫌いじゃねぇよ」
視線を逸らしながら、湯面に手を沈める 。
「悪い奴でもねぇし……まあ…」
みことは小さく瞬きし、その答えをゆっくり噛みしめるようにうなずいた。
「……そっか」
その短い声に、安堵と少しの嬉しさがにじむ。
いるまは横目でみことを見て、また照れ隠しのように頭を掻いた。
「お前な……そういうこといちいち聞くんじゃねぇよ」
「……ごめん」
「……ったく」
けれどその言葉の裏に、拒絶はひとかけらもなく、むしろ優しい響きがあった。
「お前はどうなんだよ」
いるまがふいに問い返した。
「……お前は誰が好きなんだ」
みことは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに視線を落とす。
湯の中で膝を抱えたまま、少しだけ頬を染め、小さな声で答えた。
「……すち兄ちゃん。優しくて……好き」
その言葉は、湯気の中にふわりと溶けた。
いるまの胸に、予想していたはずなのに、妙なざらつきとちくりとした痛みが走る。
「……そ、そうかよ」
努めて何でもないふうに返す。けれど声がわずかに掠れていた。
みことは気づかないまま、小さく続ける。
「でも……いるまくんも、こさめちゃんも、好き」
その一言に、いるまの胸のざらつきが少し和らぐ。
「……ったく、お前は……」
苦笑とともに、優しい力で撫でる。
湯気の中、二人の間にあった曇りは、少しずつ晴れていった。
「兄ちゃんが多くて、大変だな」
いるまはわざとぶっきらぼうに言い、照れ隠しをするように鼻を鳴らした。
みことは首をかしげ、少し考えるように黙り込む。
やがて、小さな声でぽつりと答えた。
「……でも、みんな大事だよ」
その声音は静かで、けれど迷いがなく。
いるまはふっと肩の力を抜いて、湯に身を沈めた。
「……そうか」
短く返したが、胸の奥が温泉よりもあたたかくなっていることに気づく。
隣でみことが、ほんの少しだけ笑った。
その笑みは儚げで、けれど確かな強さを秘めていて――
いるまは、もう一度頭を優しく撫でた。
湯気の立ち込める中、夜空に瞬く星々が見える。
ひまなつは縁に背を預けて気持ちよさそうに目を閉じ、こさめはばしゃばしゃとお湯を跳ねてはしゃいでいる。らんはそんなこさめを宥めながら、湯加減を楽しんでいた。
けれど――すちの表情はどこか冴えない。
目は笑っているように見えても、その視線は時折、離れた場所にいる父親へと向けられる。
「……あの」
静かに湯に肩まで沈めたすちが口を開いた。
「いるまくんとみこちゃんって何かあったんですか…」
すちの声色は柔らかかったが、内心の心配は隠しきれない。
父は一瞬言葉を探すように湯を見つめた。
それから、ゆっくりと口を開く。
「……あの二人のことは詳しく言えないんだ」
低く落ち着いた声だった。
「けれどな、もし……2人が自分から話したくなった時。その時は、どうか耳を傾けてやってほしい」
すちはじっと父の横顔を見つめ、そして小さく頷いた。
「……わかりました」
そのやり取りを、らんも真剣な顔で聞いていた。
――湯気に包まれる空間には、不思議と温かい静けさが広がっていた。
湯上がりの体を冷ましながら廊下を歩く。
しっとりとした夜の空気に包まれながら部屋の襖を静かに開けると――
そこには、畳の上で寄り添う2人の姿があった。
旅館浴衣を着たまま、いるまが少し背を丸めて横になり、その腕に包まれるようにみことが静かに眠っている。
まだ濡れた髪が枕代わりの布に広がり、2人の寝息が静かに重なっていた。
「……」
思わず息を呑むすち。
ひまなつも、らんも、こさめも、声を立てることなく立ち尽くす。
父と母はそっと顔を見合わせて、微笑んだ。
すちは胸の奥が温かくなるのを感じながら、静かに近寄って2人に掛け布団をそっとかけてやった。
みことは小さく身じろぎをしたが、すぐにまた安心したように眠りについた。
その光景は、家族にとってかけがえのない宝物のように思えた。
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