テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
第一話 : 『 狐の山、毒草の庭 』
✳✳✳
白石蔵ノ介がその山へ足を踏み入れたのは、毒草の調査が目的だった。
大学の卒業論文のテーマに選んだのは「日本における伝承植物と毒草の民間利用」。地方の山中にしか自生していない幻の花、通称「夜哭草(よなきぐさ)」の群生地がこの山にあると、文献で読んだのだ。
「ここやんな、例の場所……」
彼はリュックの中から地図と資料を取り出す。だが目の前に広がるのは、地図にない鳥居と、苔むした階段だった。
「……神社?」
古びてはいるが、不思議と崩れもせず、まるで時が止まったような佇まい。白石が一歩足を踏み入れた瞬間、山の空気がぴたりと静止した。
「お、やっと来よったかぁ」
聞こえたのは、艶っぽい声。振り返っても誰もいない。だが次の瞬間、白石の視界に一人の男が現れた。
紺藍の髪に、冥色の瞳。ひときわ長い着物の裾が、風もないのにふわりと揺れる。その背には4つの尾が、幻のようにゆらゆらとたなびいていた。
「……うわ、幻覚か……?」
「ちゃうで。あんたにだけは見えるようにしとるんや。せやから、挨拶せなあかんな。天狐の侑士っちゅうもんや。よろしゅうなぁ?」
白石は目を見張った。「天狐」。その名は伝説でしか聞いたことがない。狐の最高位であり、四尾を持つ妖。普通の人間には実態すら見えないという。
「なんで……オレが見えんねん?」
「そら、興味持ってもたからや。あんた、おもろい子やなぁ思うてなぁ」
侑士は面白がるように笑い、白石の腕を軽く引いた。気づけば身体が勝手に動く。抗う間もなく、白石は鳥居をくぐり抜け、神社の境内へと連れ込まれていた。
「ちょ、待って……っ」
境内の中は異世界のようだった。昼の山とは思えぬほど静かで、常夜のような淡い光が漂っている。地面には毒草や夜に咲く花ばかりが咲いていた。
「……こんなに、咲いとる……」
「気に入ってくれたんか?そこの庭、俺が世話しとるんや」
白石は唖然とした。神話の中の存在が、今目の前で草花を愛でている。
「お前、悪い妖怪なんちゃうんか?」
「まぁ、“悪狐”言われとるけどなぁ……せやけど、興味惹かれた人間に悪さするのは趣味やない」
侑士の尾が、ふわりと白石の背に巻き付いた。柔らかくて、温かくて、くすぐったい。逃げようとする白石の足は、なぜか止まってしまう。
「なぁ、ここで俺としばらく暮らしてみいひん?あんたやったら退屈せん気ぃするんや」
「……誘拐やんけ、それ」
「せやなぁ。けど、イヤやったら見えんようにもどして山に帰したる。選ぶんはあんたや」
侑士の冥色の瞳が、まっすぐに白石を見つめていた。
毒草と花に囲まれた静かな神社。天狐の妖の気まぐれな誘い。白石はしばらく口を閉ざし、それからふっと笑った。
「オレ、ちょっと変わってる奴が好きやねん」
「ほぉ?」
「毒草と天狐の世話、どっちもできるなら……まぁ、おもしろそうやし、ええかもしれんな」
「……ほんま、ええ反応してくれるやっちゃなぁ」
その瞬間、四本の尾が嬉しげにふわりと揺れた。
天狐と、毒草を愛する青年の、奇妙で妖しく、少し不思議な共同生活が、こうして始まった。