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第12話「牛の手伝い、角の少年」
朝よりも明るいはずなのに、景色はすこし色を失っていた。
空はうすい絵の具を溶かしたような水色で、雲は重たそうに浮いていた。
ナギは、長靴を履いていた。
そのゴムの表面は、いつのまにか泥が乾いたようにひび割れていて、
しゃがむたび、音もなく白く砕けた。
Tシャツの色も、昨日より少しくすんでいる気がした。
くせ毛の髪は後ろで結ばれていて、首もとには少しだけ日焼けの跡が残っていた。
「ナギちゃん、これ持ってて」
ユキコが手渡してきたのは、バケツだった。
でも中には水ではなく、刻まれた青草がいっぱいに詰まっていた。
甘くてすこし発酵したようなにおいがした。
牛小屋は、木の板でできていて、ところどころ傾いていた。
でも崩れはせず、不思議と安定していた。
その奥に──彼はいた。
ヒビキ。
角が、ひとつだけ生えていた。
頭の左側、黒髪の中にまるで自然のように埋もれる小さなつの。
制服のような作業着を着て、長い棒でわらをかきまぜていた。
「……あげて、いいよ」
彼の声は、牛の鳴き声よりも静かだった。
ナギは、バケツを抱えて小屋に入った。
大きな牛がひとつ、こちらを見ていた。
でも目が、ぼんやりとしていて、まばたきのタイミングがなかった。
「この子たち、食べてる?」
「食べてる。……でも味は、たぶん、覚えてない」
ナギはそっと青草を前に置いた。
牛は口を動かしたけれど、音はしなかった。
「ユキコが、“牛の時間は止まりやすい”って言ってた」
ヒビキが言った。
その目は伏せがちで、口元だけが、少し動いていた。
「ナギちゃんも、止まる?」
「……どうだろう。わたし、動いてるつもりだけど……」
「でもほら」
ヒビキが、手にした時計を見せてくれた。
古い腕時計。針は、まったく動いていなかった。
「ここに来たときから、ずっとこうなんだ」
「ユキコの時間も止まってると思う?」
ヒビキは答えず、わらの中に指を沈めた。
そして、指先で草を一本だけ、ゆっくり立たせるようにしてこう言った。
「止まってる人と、止まりたくない人が一緒にいるとね、夢になるんだって」
ナギは、視線を落とした。
自分の影が、足元で揺れていた。
けれどそれは、風のない場所では動かないはずだった。
「……ナギちゃん、牛は覚えてるよ。草の味も、君の手も」
ヒビキの声が、どこか遠くなっていた。
仕事が終わるころ、ユキコが小屋の外で待っていた。
ワンピースのすそに、小さく干し草のくずがついていた。
ナギはそれを見て、小さく息をのんだ。
ユキコが、今日“何かにふれた”ことがわかったから。
それが、少しうれしくて──そして、こわかった。
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