テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#サレ妻
都築七美
1,141
赤井 里会
1,613
ゆうき
73
キーケースの留め具を、私は元どおりに開いたままにしておいた。
鍵の向きも、扇の広がり方も。
飾り棚の上の、置き忘れられた位置のまま。
十分後、麗奈がばたばたと階段を下りてきて、キーケースをつかんで出ていった。
私が厨房の入口から見ていたことには、気づかなかった。
*
お盆の三日目は、朝から空気が重かった。
昼過ぎに、蝉が鳴きやんだ。
西の空に、墨を流したような雲が積み上がっていく。
蒼真は、大阪の取引先との会合で、一晩留守にしていた。
堂島が駅まで送っていき、そのまま向こうの宿に詰めている。
夜九時。
麗奈は、いつもどおり和館の檜風呂に入っていた。
私は半地下のランドリーで、陽翔の体操服にアイロンをかけていた。
最初の稲妻は、窓の外を白く塗りつぶした。
数えるより早く、雷が屋根の上で割れた。
天井の電球が、一度またたいた。
二度目の雷で、全部の灯りが消えた。
*
真っ暗だった。
アイロンの赤いランプも、洗濯機の表示も、何もかも。
天井近くの窓の外も、黒い。街灯まで消えている。
遠くで、甲高い悲鳴が上がった。
和館のほうだった。
麗奈の声だ。檜風呂の中で、灯りが落ちたのだろう。
アイロンのコードを手探りで抜いた。
それから、立ち上がった。
ランドリーの戸口から、廊下へ。
右の壁に指を沿わせて、七歩。そこで半地下の階段が始まる。
十四段。
上りきって、左へ。厨房の床は、タイルの目地が足の裏でわかる。配膳台の角を、腰でよける。
パントリーの奥の壁に、分電盤がある。
蓋を開け、指で一つずつなぞった。
主幹のつまみは、上がったままだった。どれも、落ちていない。
家の中の故障ではない。
坂の上も、坂の下も、全部が止まっているのだ。
パントリーの小窓から外を見た。
白樺台の家々の灯りが、一つ残らず消えていた。
*
ろうそくが要る。
厨房を出て、渡り廊下へ。
和館の廊下の三枚目と七枚目の板は、鳴る。踏まないように、足を大きく出す。
仏間の襖を開けた。
線香の残り香が、闇の中にこもっていた。
仏壇の下の、左の引き出し。
おととい、迎え火のために開けたばかりだった。
ろうそくとマッチを取り出し、一本に火をつけた。
小さな炎の中に、白い盆提灯が浮かび上がった。
新しい位牌の金の字が、一瞬だけ光った。
「――誰?」
隣の部屋から、お義母さまの声がした。
「佐伯でございます。停電です、大奥様。坂の下まで、全部止まっております」
襖を開けると、お義母さまは寝間着の上に羽織を引っかけて、布団の上に座っていた。
老眼鏡をかけていない顔が、ろうそくの灯りの中で、ひどく年をとって見えた。
「座敷へ、お移りください。皆さまを、お集めします」
*
二本目のろうそくに火を移して、お義母さまに持たせた。
それから、洋館の二階へ向かった。
陽翔の泣き声が、吹き抜けの上から降ってきていた。
大階段の前で、私は手すりに指をかけた。
一段。二段。
踊り場までは、体が全部覚えている。暗闇の中でも、段の高さが足の裏に返ってくる。
十三段目で、私はわざと足をのせた。
ぎい、と板が鳴った。
この家の者なら、跨ぐ段だ。
暗闇でも、それだけは忘れない。
「坊ちゃん。凛です。いま、まいります」
子ども部屋の扉を開けると、陽翔はベッドの上で、ぴょんたを抱いて丸くなっていた。
「りんさん……」
「大丈夫ですよ。雷が、電気をびっくりさせただけです」
陽翔を抱き上げると、首にしがみついてきた。
ぴょんたの耳が、私の頬に押しつけられた。
暗い廊下を戻り、大階段を下りる。
腕の中で、陽翔が小さく言った。
「りんさん。まっくらなのに、ころばないね」
「坊ちゃんを抱いているときは、転ばないことにしているんです」
陽翔は、私の首に顔をうずめたまま、くすっと笑った。
十三段目が、私の足の下で、もう一度鳴った。
*
和館の座敷に、ろうそくを三本立てた。
お義母さま。陽翔。
それから、バスタオルを体に巻きつけ、濡れた髪から雫を垂らした麗奈。
「なんなのよ、もう。真っ暗で、お湯の中で、何も見えなくて」
麗奈の唇は、青かった。
私が檜風呂の脱衣所まで迎えにいき、手を引いてここまで連れてきたのだった。
麗奈の濡れた指が、私の腕をつかんで離さなかった。
八日前、この人は壁の向こうで、私を階段から落ちる道具にする相談をしていた。
その人が、暗闇の中では、私の腕にすがりついている。
「凛さん、どうやって来たのよ。懐中電灯もないのに」
お義母さまが、ろうそくの向こうから私を見ていた。
「なぜ、真っ暗で迷わないの」
座敷が、静かになった。
雨の音だけが、屋根を叩いていた。
「昼のうちに、歩数で覚えております」
私は、陽翔の背中を撫でながら答えた。
「旅館は、山の中でしたので。冬はよく、雪で電気が止まりました。お客様をお連れするのに、廊下の歩数を全部、体に入れておくのが決まりでございました」
凛さんの旅館が、本当にそうだったのかは知らない。
けれど、この家の歩数を体に入れたのは、本当だった。三年かけて、お義母さまに叱られながら。
お義母さまは、すぐには何も言わなかった。
ろうそくの炎が、老眼鏡のない目の中で揺れていた。
「……そう。旅館の、ね」
茶の稽古のときも、この人は私の言葉をそのままなぞった。見よう見まね、と。
信じた声ではなかった。信じたことにしておく、という声だった。
陽翔が、お義母さまの膝の上から、私のエプロンの裾をつかんでいた。
私は、その小さな手を握り返さなかった。ただ、ぴょんたの頭を一度だけ撫でた。
*
玄関のほうで、扉を叩く音がした。
二度。
少し間をおいて、もう二度。
私は陽翔をお義母さまに預け、ろうそくを一本持って立った。
洋館の玄関の扉を開けると、雨と一緒に、黒い影が飛びこんできた。
榊さんだった。
傘は差していなかった。
シャツが体に張りつき、眼鏡に雨粒がいくつも光っていた。
「離れから、母屋が真っ暗に見えた。……みんな、無事か」
「はい。和館の座敷に、皆さま」
そのとき、開いた扉から風が吹きこんだ。
ろうそくの炎が、横に倒れて、消えた。
玄関ホールが、闇に沈んだ。
吹き抜けの上で、雷がもう一度鳴った。
足元の床が、かすかに震えた。
何かが、私の手に触れた。
濡れた、大きな手だった。
冷たいのに、手のひらの真ん中だけが熱かった。
雨の匂いと、かすかな墨の匂いがした。
離れで、何か書き物をしていたのだろうか。
「動かないで」
榊さんの声が、すぐ近くでした。
「……ここに、いる」
手袋の上から、指が絡んだ。
握る力は強くなかった。けれど、離れなかった。
暗闇の中では、私の顔は見えない。
首のスカーフも、別人の頬骨も。
この人には、いま、私の手しか見えていない。
「れ――」
唇から、名前がこぼれかけた。
呼んだことのない名前だった。
心の中でさえ、一度も呼んだことのない。
私は、唇を噛んだ。
「……榊さん」
握られた手に、少しだけ力がこもった。
榊さんは、何も聞き返さなかった。
雨の音の中で、私たちは、闇が終わるのを待っていた。
*
ぶうん、と低い音がした。
冷蔵庫の音だった。
厨房のほうから、家が息を吹き返す音が聞こえてくる。
頭上で、シャンデリアがまたたいた。
一度、二度。
榊さんの手が、離れた。
光が戻る、その寸前の、ほんの一瞬だった。
大階段の踊り場で、柱時計のガラスの奥が、小さく赤く光った。
振り子の裏で。
一度だけ、点滅した。
次の瞬間、玄関ホールに灯りが満ちて、赤い光は見えなくなった。
私は、榊さんの濡れた肩越しに、踊り場の時計を見上げていた。
こち、こち、と振り子が揺れている。
お義母さまのカメラは、まだ生きている。
コメント
1件
第34話、読ませていただきました。 停電という非日常の中で、暗闇だからこそ浮かび上がる人間関係の機微が本当に美しかったです。凛さんが「歩数で覚えている」と言ったときのお義母さまの反応や、陽翔くんの「ころばないね」という言葉にじんとしました。そして何より、榊さんが手を握るシーン——あの距離感と緊張感がたまらなく好きです。光が戻る寸前に離れた手が、逆にこれからを示唆しているようで続きが気になります。 最後の「お義母さまのカメラは、まだ生きている」という一文、背筋が冷えました。素敵なエピソードをありがとうございます🌷