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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
「……すみません」
榊さんが、低い声で言った。
離れた手を、どこに置けばいいかわからないように、濡れたシャツの脇で握っていた。
「手を。暗かったので」
「いえ」
私は、手袋の手を、エプロンの前で重ねた。
指の間に、まだ雨の冷たさが残っていた。
和館の座敷へ案内すると、お義母さまが、ずぶ濡れの榊さんを見上げた。
「あなたが母屋に上がるなんて」
「停電の家に、子どもがいる。株主の家でもある」
榊さんは座敷の敷居の外に立ったまま、一歩も中へ入らなかった。
陽翔が、お義母さまの膝の上から「おじさん、びしょびしょ」と言った。
お義母さまは、何も言い返さなかった。
私に、タオルを持ってくるようにとだけ言った。
*
翌朝、八時。
大階段の踊り場で、柱時計のガラスの扉を開けた。
文字盤の穴に鍵を差しこみ、きりきりと巻く。
一回、二回。
二年間、私はこの時計の裏を一度も見なかった。
見れば、見たことを知られる気がしていた。
今朝は、ガラスの扉に映る自分の肩越しに、振り子の奥へ目をやった。
八回目を巻き終えたとき、板の小さな穴の奥で、赤い点が一度だけ灯った。
朝の光の中では、気をつけていなければ見えないほどの光だった。
人が前に立つと、目を覚ますのだ。
ゆうべは、灯りが戻った瞬間の光の変わり方に、反応したのだろう。
ぼーん、と時計が八時を打った。
階段の上に、陽翔がいた。
ぴょんたを抱いて、手すりの柱の陰から、私の手元を見ていた。
小さな唇が、声を出さずに動いていた。
ろく。なな。はち。
目が合うと、陽翔はぱっと柱の陰に隠れ、子ども部屋のほうへ駆けていった。
私はガラスの扉を閉め、何も見なかった顔で階段を下りた。
*
ムギの散歩のあと、離れの縁側で、私は榊さんに話した。
二年前、ねじを巻いていて見つけたこと。
振り子の裏の板の穴に、指先ほどのレンズがはまっていること。大階段と踊り場を、まっすぐ見下ろす位置にあること。
「仕掛けたのは、お義母――」
言いかけて、言い直した。
「大奥様です。毎月一日の朝早く、まだ誰も起きていない時間に、大奥様が洋館の階段を上っていかれるのを、厨房から何度も見ました。踊り場で、少しのあいだ止まって、また下りていかれる」
「電池と、記録の入れ替えか」
「たぶん、小さな記録のカードです。嫁が階段をどう上り下りするか。手すりを拭いたかどうか。大奥様は、それを見ていらしたんだと思います」
榊さんの眉間に、皺が寄った。
「……あの人らしい」
それから、しばらく黙って、庭の向こうの洋館の屋根を見ていた。
「麗奈が、階段で落ちるつもりなら」
「カメラが、見ます」
私は言った。
「あの階段は、玄関ホールのどこからも見上げられます。お客様がいれば、なおさら。奥様は、人に見られる場所を選ぶはずです。見ている人が多いほど本当になるって、お母様がおっしゃっていましたから」
「あの女が狂言で落ちて、あなたに押されたと言えば」
榊さんの声が、仕事の声になった。
「傷害。子どもが流れたと言い張れば、もっと重く扱われる。警察は、まず目の前で倒れている妊婦の言葉を聞く。家政婦の言葉は、その次だ」
「わかっています」
「そうなったら、俺があなたの弁護人になる。……それは、先に言っておく」
仕事の声のまま、そう言った。
私は、うつむいて、膝の上のムギの毛を撫でた。
「カードを、先に確かめておくべきだ。本当に記録されているのか。向きは合っているのか」
「触りません」
榊さんが、こちらを見た。
「細工は、しません。向きも変えないし、カードも抜きません。カメラが見るのは、起きたことだけです。私が手を入れたら、それはもう、私が作った証拠になります」
この家で嘘の証拠を作るのは、いつも私以外の誰かだった。
それだけは、最後まで変えたくなかった。
「私がするのは、毎朝、ねじを巻くことだけです。時計が動いていれば、誰も時計の裏を気にしない。巻くたびに、赤い光が点くのを確かめます」
「電池が切れたら」
「大奥様は、月の初めに必ず替えます。私の知る限り、一度も欠かしたことのない方です」
榊さんは、長いあいだ私を見ていた。
それから、ふっと息を吐いた。
「あなたは、自分に一番不利なやり方を選ぶ」
「不利、ですか」
「何もしないで待つのは、何かをするより、ずっと怖い」
ムギが、縁側の板の上で寝返りを打った。
腹を見せて、私の膝に前足をのせた。
榊さんは、ムギの腹を見下ろしたまま、言った。
「……昨夜、何か言いかけましたね」
心臓が、一度、大きく打った。
「暗闇で。榊さん、の前に」
「何も」
私は、ムギの前足を、そっと膝から下ろした。
「何も言っておりません。雷の音と、聞き違えられたのでは」
榊さんは、それ以上聞かなかった。
ただ、眼鏡の奥の目が、ほんの少しだけ、笑ったように見えた。
*
八月十七日、月曜日の午後。
勝手口の戸が、叩かれた。
ムギのときの二度ではなく、三度。せっかちな叩き方だった。
開けると、知らない男が立っていた。
いや、知っている。
無精ひげ。
この暑さの中で、よれたトレンチコートを腕に掛けている。口の中で、何かを噛んでいた。ミントの匂いがした。
病室で、一度だけ会った刑事だった。
私が、何も覚えていない、と紙に書いた相手。
あのとき、この人は手帳に一行だけ書いて帰った。何と書いたのか、私はいまも知らない。
「どうも。白樺台署の、水無瀬といいます」
男は、警察手帳を一瞬だけ開いて、すぐにしまった。
「病院で一度、お会いしてますよね。佐伯凛さん。……ずいぶん、お顔が落ち着かれた」
「……ご無沙汰しております」
「事故の件で、もう一度、お話を伺いたくて。お時間、いいですか」
背後で、足袋の音がした。
お義母さまが、厨房の入口に立っていた。
刑事の顔を見て、扇子が胸元で止まった。
「警察の方が、家の中に上がられるのは困るわ。主人がいない家ですから」
「ああ、ここで結構です。すぐ済みますんで」
水無瀬さんは、勝手口の上がり框に、勝手に腰を下ろした。
トレンチコートを膝に置き、手帳を開く。
お義母さまは、しばらく私たちを見ていた。
去年の十一月、この人も、この刑事に話を聞かれたはずだった。面接に来た家政婦のこと。その日の嫁の様子。
何を話し、何を話さなかったのか。私は知らない。
お義母さまは、何も言わずに、和館のほうへ戻っていった。
「まだ、何も思い出さない?」
「はい」
「そうですか。まあ、頭を打ってますからね」
水無瀬さんは、手帳のページを一枚めくった。
「あの日、あなたはこちらで大奥様の面接を受けた。帰り道、坂を歩いて下りていたら、亡くなった奥さんの車が止まって、乗せてくれた。そこまでは、大奥様の話と合ってる」
「……はい。そう、伺っております」
「奥さんとは、車の中でどんな話を?」
「覚えておりません」
凛の声で、そう答えた。
本当は、覚えている。
採用、してもらえたんだに、と凛さんは笑った。骨の折れた傘を、膝の上で畳みながら。
それから、震えている私の手を見て、代わりましょうか、と言ってくれた。こういう坂は慣れてるんです、と。
「そうですか」
水無瀬さんは、手帳に何も書かなかった。
ガムを噛む音が、止まった。
「ただね。俺、あれからずっと、一つだけ引っかかってるんですよ」
手帳から顔を上げた。
眠そうな目が、私の首のスカーフに止まった。
「あの車、右ハンドルでしたよね。運転席は右。燃えたのも、右側からだった」
ガムを、一度だけ噛んだ。
「佐伯さん。助手席にいたあなたが、なんで運転席側の炎で火傷してるんです?」
コメント
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第35話、めっちゃ好きです…「触らない」って決めた場面、静かだけどすごく強くて。最後の刑事さんの「なんで運転席側の炎で火傷してる?」で全部の景色が変わった気がしました。榊さんの「あなたは自分に一番不利なやり方を選ぶ」って言葉も刺さる…続きが気になりすぎます💔