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「……ええ、それが先代の遺言でしたので。それに家業は、年の離れた上の兄ふたりがうまいことやっているから、俺は必要ないでしょう」
本当の父親は当時組のトップで、表向きは祖父という間柄になっていた。橋本が小学生の頃に上の兄ふたりが組を継ぎ、四男として生まれた橋本を、堅気の仕事に就いていた三男の兄が育てて、現在に至る。
『陽、おまえは日陰にいちゃいけねぇぞ。おてんとさんの光をしっかり浴びて、周囲を明るく照らす、誰にでも優しい存在になるんだ。いいな?』
大きくてあたたかい手で頭を撫でながら告げられた実父のセリフを、橋本は頭の中で反芻する。
「だけど親戚が裏社会で暗躍してる以上、人には言えない苦労があっただろ? 俺なんて同性の恋人と駆け落ちしちまったくらい、家にいるのが嫌だった」
自らの性癖と一緒に苦労を暴露した笹川に、橋本としても同じように抱えているものを吐露したかったが、そこはあえて飲み込んだ。今は、ハイヤー運転手として生きている。笹川とは立場が違うからこそ、言うべきじゃないと思った。
実父に言われた通り、陽の光を浴びて生きている意地があったから。
「確かに苦労はありました。しかしすぐ上の兄が面倒をよく見てくれたお蔭で、こうして真っ当な仕事をしながら、幸せに暮らすことができてます」
小さいときは何度か誘拐されたし、中学生のときには闇討ちにもあった。父代わりをしている喜三郎の息子の誠一郎が偶然通りかかって、大怪我をせずに済んだが、命の危機を感じてボクシングジムに通うようになったのは、このことがきっかけだった。
異母兄弟の兄たちの策略なのか――あるいは兄たちの子どもが、自分を陥れるために手を出してきたのかは、未だにわからない。
己の身を守れるようになった今、大切に想っている恋人に危害を加えられないようにしなければと、橋本の心配の種が尽きなかった。
「幸せに暮らしている橋本さんに、頼みがあるんだけどなぁ」
猫なで声を出した笹川を、ルームミラーでちらっと見た。頼みごとをしたはずなのに、その顔はどこか楽しそうな感じに映った。
笹川の隣にいる藤田にも視線を飛ばしてみたが、我関せずという態度を示すように、顔を横に向けて車窓を眺める。
「ハイヤー運転手として幸せに暮らしている俺に、わざわざ頼みごとをしないでいただきたい」
橋本は乾いた声で、強請られたことを断った。
「怖いのか。俺の頼むことが」
「怖くありません。余計なことを背負って、平穏な日常を乱されたくないだけです」
「いいや、怖いから逃げるんだろ。男のくせに情けないなぁ」
(-_- メ)イライライラ!
「怖くないって、さっき言ったはずです。しつこいですね」
「だったら、はい。これなんだけどさ」
後部座席から放るように、いきなりそれを助手席に置かれた。
パッと見は、ただの黒い手帳に見えるが、よぉく確認すると、開かないように大きな鍵がついていた。
イライラが頂点に達した橋本は、ちょっとの間だけ駐車できる場所まで、ハイヤーを走らせることに集中する。ナイスなタイミングで目の前にコンビニを見つけたので、迷うことなくそこに停車させるなり、睨みをきかせながら後ろを振り返った。
「さすがは、暴力団の幹部様だな。やめろと言ってる一般人を相手に、強引なことをしやがって!」
「へぇ、なかなかいいモンもってるのな橋本さん。さぞかし、たくさんの女を啼かせてきたんだろうなぁ」
「今は、そんな話をする状況じゃねぇだろ」
「昴さん、いい加減にしなよ。橋本さんも落ち着いて」
それまでだんまりを決め込んでいた藤田が会話に参加し、主導権をかっさらうように口を開く。
「とりあえず橋本さんには、それを1週間ほど預かってほしいんだ。理由はさっき聞いたでしょ。俺の店に警察が入る関係で、手元には置けない状態。それに昴さんも前科があって、執行猶予中の身なんだよ」
「そんな……」
「そして真面目な話をしてるときに、茶々を入れた昴さん。まずは橋本さんに謝ってちょうだい。俺らは一般人の彼に、頭を下げるような頼みごとをしている立場なんだからね」
藤田が肘で笹川を突っつくと、笹川は面白くない顔をしながらも、きちんと頭を下げた。
「悪かった……」