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108 ◇秀雄の胸の内
退院後、なんとか3人の暮らしを守っていかなければならないと母親とふたり
裁縫の道を模索し『なんとかなる、なんとかなる』と思おうとするのだが、
結局出戻った自分のために両親が苦労しているのが分かるだけに、気がつくと雅代は知らず知らずため息をつくのだった。
そしていずれは口減らしにどこぞに嫁がなければどうしようもない日が来るのではないかと思うと、知らず知らずおぞ気が襲ってくるのであった。
そのたびに身体さえ丈夫であれば、仕事を探してくれる哲司のような友人もおり、職場にもいろいろと手助けしてくれる人たちもいて、周囲には恵まれていたのだからもっとゆとりのある暮らしができたはずなのに……と落ち込んだりもする雅代だった。
母親とふたり夕餉の支度をしている時のことだった。
父親は近所の知人の家へ将棋を指しに出掛けていた。
「何か、今の今までうっかりしていたけれど、秀雄さんはどうなったの? お見舞いには来なかったの? あなたとやり直したいってご執心だったのに……」
「私もなんだか秀雄さんことは忘れてたわぁ~、あははっ」
「あははって、雅代~」
「少しの間だけだったんだけど、私が入院していた時、隣にもう1人入院患者がいたのね。
その人が残念なことにもう助からない病気ですぐに別の病棟へ移って行ったんだけど、まぁ何て言うんだろう……看護婦さんたちの言動でたぶんだけど秀雄さん、隣の人の病気のことを私のことだと間違えて、それで私が先の長くない病気だと勘違いして私に会わずに帰ったみたい。病室の前まで来てたのにね」
「そんなぁ~、分かってるなら手紙で知らせればいいじゃない」
「お母さん、私の寿命はまだあるみたいだけど工場で働けない身体なのよ。
頑丈とは言えない身体なのよ」
「だけど、家事くらいならできるじゃない」
「そうだけど、理由はどうであれ秀雄さんは2度も私を捨てたようなものよ。工場で働けるくらいには元気な私なら戻ってきてほしいけど、きっと身体の弱い私になんてもう戻られても困るって思うんじゃないかなぁ」
「そんな……そっか、残念だったわね」
「秀雄さんの私に対する気持ちがよぉ~く分かって良かったわよ。
自分が不便で体裁が悪いから、私に会いに来ただけだったのよ、結局はね」
-920-
――――― シナリオ風 ―――――
〇雅代の実家/大林家の台所 夕刻
まな板の音、味噌汁をかき回す音。
小さなランプの灯り。
(N)
「退院後の雅代は、母・育代と二人、針仕事で細々と生計を立てていた。
“なんとかなる、なんとかなる”と自分に言い聞かせながらも――
気づけばため息がこぼれてしまう」
雅代、野菜を切りながら、ふと手を止める。
雅代(ぽつりと)「……はぁ」
育代、鍋の蓋を閉めながら振り返る。
育代「どうしたの、またため息なんかついて」
雅代「いえ……。
私のせいで、いろいろ無理してもらってるなって思っただけ」
育代(明るく笑いながら)
「なに言ってるの。娘が帰ってきてくれただけで、お父さんも私も嬉しいのよ」
しばしの沈黙――――。
雅代(心の声)
「……でも、いつか……どこかにお嫁に行かなきゃって、思ってしまうの。
そうしなきゃ、この家も立ちゆかない気がして」
煮物の具財を切る音。
外から風の音がする。
育代(何気なく)
「そういえば……今の今までうっかりしてたけど、秀雄さんはどうしたの?
お見舞いにも来なかったの?」
雅代(包丁を止めて、苦笑)
「……あら、ほんとね。私も忘れてたわ、あははっ」
育代(あきれて)
「あははって、雅代~!」
雅代、まな板に手を置いて話し出す。
雅代
「少しの間だけどね、入院中、隣のベッドに別の人がいたの。
その人、もう助からない病気で、すぐ別の病棟へ移されたのだけど……
たぶん看護婦さんたちの話を秀雄さんが勘違いしたみたいで。
私がその“助からない人”だと思って、病室の前まで来てたのに帰っちゃったのよ」
育代(驚いて)
「ええっ? そんなの、ちゃんと知らせてあげればいいじゃないの!」
雅代(少し寂しげに)
「……お母さん、私の命はまだあるけどね、工場で働けない身体なの。
きっと、元気な私じゃないと、あの人は困るんじゃないかしら」
育代
「そんなことないわよ。家のことくらいならできるでしょ?」
雅代
「そうだけど……結局、秀雄さんは私を二度も捨てたようなもの。
工場に通えるくらい元気なら戻ってきてほしいと思うかもしれないけど、
身体の弱い私には……きっと、もう興味なんてないわ」
育代(小さくため息)「……そう、残念だったわね」
雅代(穏やかに笑って)
「でもね、分かったの。秀雄さんの気持ちが。
――自分が不便で、体裁が悪くなったから、私に会いに来ただけ。
結局、それだけのことだったのよ」
しばしの沈黙。
かまどで煮ものがコトコトと煮える音……。