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石の都市堅固。かつて石工と彫刻家の後援者銀の指先王の下に造成された都市だ。異民族を押し返すべく街覆う城壁や、神の加護を希う尖塔や、古の戦士たちを寿ぐ碑だけではなく、風雨を凌げれば十分だろう庶民の住居の屋根や家畜のための粗末な小屋までありとあらゆるものを石で賄っている。石は堅固であり、長い時を経ても蝕まれることはない。ケボルソンの少なからぬ市民は何より石を愛し、信頼し、そして人生を託していた。
その通り、街は築造されてからほとんどの王朝の寿命よりも長い年月を経る。度重なる戦乱を経てもなお砦の如く頑強な街は残ったが、しかしケボルソンを都とした王国は、そこでの当たり前の営みは深い夢の底へと沈み、今は深い霧の奥で伝説に語られるのみとなった。
ケボルソンの街には隙間や余地といえるものがない。全ては数学者の見出した精妙さを石工の巧妙な手によって削り出された石が寸分違わず敷き詰められている。舗石だけではなく、王城から庶民の家屋まで手抜かりなく、その壁や屋根も、その石の庭を取り囲む塀も古の時代に設えられたまま今に残っていた。
ケボルソンには地面というものがない。全ては石に覆われ、街そのものが巨大な建造物であり、地面はその下にある。ということになっている。
人々がその街の巧拙さを当たり前のものとし、建造者たちの名を忘れかけた頃、魔法をもその手に携えた古の数学者が生み出した狂いなき街をこじ開けて、土を露わにした者がいた。名を咲かす者。美を知り、使命を携えた類を見ない魔法使いだ。
それを訪問と見なすか襲来と見なすかは他の時代と同様に派閥ごとの解釈に委ねられるだろう。ただ、それ以前に、そのことを知る者はバーラエ自身と幾人かの石を愛さぬ魔法使い、そして石の街を彷徨う常軌とは無縁の子供たちだけだった。
多くの市民たちはバーラエの狡猾な魔法によってこじ開けられた空間を認識することさえできず、今日も街は寸分違わぬと信じ、微睡みと安逸と仮初の永遠を貪っている。
それほど強力な魔法を修めたバーラエだが、それは数多く身に着けた魔法の中でも序の口だった。バーラエの魔法の本領はその開かれた空間、土の露わになった土地に施される。
バーラエがその街に住み着いた頃、夢見る人々はバーラエの存在には気づかなかったが、その魔法の一端は感じ取っていた。すなわち魔の香りだ。いつの間にか馨しい香りが風に乗って、隙間ない街の隅々まで吹き渡り、夢の中でさえ香っていることに人々は気づいていた。いつの頃からこの香りは漂っているのだろう、と初めは魔法に疎い人々も疑問を抱いていたが、一つの季節が過ぎ去った頃には疑問を抱いていたことさえ忘れ、その香りに古くからの歴史を幻視していた。古の頃から、この偉大なりしケボルソンは石と香りの街である、と街を愛する誇り高き人々は根付いた旅人に吹聴するに至った。それもまたバーラエの巧みな魔術によるものとも知らずに。
バーラエの魂のそばに寄り添う最も強力な呪文は花を咲かす力を持っていた。それも時間や季節、土地柄や時代さえ超越して、どのような花を咲かすことも可能ならしめた。バーラエ自身さえもその魔法の来歴を把握していなかったが、その力を持つ者としてバーラエは過去にも他所の土地にもない唯一無二の花園を造ることを決心し、ケボルソンをその花壇とすることにした。
そうして造園された至高の花園は古今東西全ての土地の花を年中咲き乱れさせている。ただしその土地は十分に広いが十二分に広いとは言えない。どのような花も一輪しか咲くことが許されず、花々は全ての縁戚に囲まれながら孤独だった。
美しくも奇妙な花園だ。自然界では顔を合わせることのない地面に咲く花々がただ色が近いというだけですぐそばに植わっている。木に咲く花々も同様で、木々さえも混乱している。ただその全ての花が石さえも蝕む強力な根を持っていた。
その秘密の花園にまだ十にも満たない一人の少年が彷徨っていた。大人であればいくつもの秘密を知らなければ決して迷い込むはずのない花園に、無垢なまま入れるのは夢と現を行き来する子供の特権だ。そうは言っても大概の子供は迷い込み、我も忘れて泣き喚き、親の名を叫ぶのが精一杯というところだ。そういう子供を見かけるとバーラエは一輪の花を持たせて送り返すのが常だった。
しかしその少年は違った。極彩色の花園を歩き、何かを探している。
そのそばへ小さな翼の生えた鹿のような怪物を象った大理石の樋嘴がやってくる。それがバーラエだ。大理石の樋嘴はバーラエがこの街に初めて訪れた際、この秘密の土地を引っ張り出すためのきっかけにしたもので、多くの石像の中で唯一気に入ったのでそのまま憑りついたのだった。
「ばーらえさん」少年は恐れる様子もなくはきはきと話す。「きれいなおはなをさがしています」
バーラエがそのように話しかけられるのは珍しかった。花は話さないし、大概の子供はバーラエの姿に驚いて泣くか、初めから泣いているからだ。
「全て綺麗だと思うが」バーラエは訝しみ、小さな翼をぱたぱたと羽ばたかせる。「確か坊やの好きな花は黄色い花だろう?」
バーラエがそのように答えるのも珍しかった。バーラエが主に相手をするのは花で、花は決まって無口だったからだ。
「はい。だけどとくべつにきれいなおはながいいです」
「ふむ。特別に、か。私にはどれも特別なのだがね。どれもがたった一輪で、私が手塩にかけた花々だ。どれをとっても同種の花より美しく咲いているはずだよ」
坊やはまごつき、何か言おうとするも上手く言葉にできない様子だった。
「少し難しかったか。まあ、良い。水やりの時間まで少しある。一緒に探してみようじゃないか。特別な花。特別な花か。その特別な花をどこかで見たのかな?」
坊やは小さな頭をぶんぶんと振って否定する。しかし言葉にはしない。
それでも前よりはよく話すようになった。人と話すことの滅多にないバーラエは時折迷い込む幼子たちにもあまり言葉をかけない。彼らには帰るべき場所があり、戻るべき道がある。魔法を嗜む者が言葉をかけるのは邪魔になるだろう。
だが坊やに帰るべき場所はなかった。事情を聞きだすのには大層な時間がかかった。実際のところ聞き出せているかどうかあやふやなものだ。バーラエは幼児語から何とか推測し、想像するにどうやら坊やは両親を共に失ったらしい。
父はいなかった。母はいなくなった。それらが坊やの全てだったが、その全てが坊やのもとから立ち去った。
ケボルソンは大きな街だが孤児院の類はもうない。当然必要がないからだ。どちらにしてもバーラエは坊やに両親がいないということを知ったその日の内に決心していた。
花を育てるように人間を育て、花を愛するように人間を愛することも出来よう。これまで面倒を見るのも育てるのもバーラエの長い長い日常だった。
律義なバーラエは「君の面倒を見ても良いか?」と尋ね、
坊やは「よろしくお願いします」と答えた。
バーラエが坊やの面倒を見るようになってから花園は少しばかり様変わりした。必要なかった屋根が必要になり、麺麭と飲める水が要り様になった。水と土と光だけでは人間の子供は生きることができないことを知り、それらを用意する魔法を持ち合わせていないバーラエは街から出かけることが増えた。
初めは、それしかできないかのようにただじっとしていた坊やだが、バーラエや花園に危険がないと分かるとよく歩き、よく転び、親の話をしては泣くようになった。
しかしなぜ転ぶのに歩くのか、泣くほどつらいのに親を想うのか、バーラエには分からなかった。
時折訪れる子供たちと話をするようになったことも変化の一つだ。多くはただ少しでも早くこの場から逃げたがっていたが、中には好奇心旺盛で警戒心の薄い子供もいた。そういう子どもに日々どのような生活を送っているのかを教わった。多くの子供は花より多弁で話しかければかける程、多くの言葉が返ってきた。そして、あいかわらず送り返す時には一輪の花を贈るのだった。
「そもそも特別な花をどうしたいんだ?」とバーラエはその小さな背中に尋ねる。
しかし坊やは「わかりません。みんなはどうしているのでしょうか? それもしりたいです」と答えた。
坊やの後をバーラエはついて行く。特別な花を探すと言ってもその正体が分からなくては見つけようもない。
坊やは歩き、立ち止まり、座り込み、花を見つめ、また立ち上がり、歩き始める。
バーラエはその様を観察し、これまでのことを思い出す。何か特別な出来事はあっただろうか、と。しかしいくら考えても特別な花を推測するには足りなかった。
蜂が弧を描いて飛ぶのを見て、花に水をやる時間になったことにバーラエは気づく。
「おみずですか?」と坊やが言う。
「ああ、よく分かったな」とバーラエは言う。
「さっきばーらえさんがいってました。あずまやであまやどりするまでまってください」と言って、しかし坊やは四阿の方へと向かわない。
バーラエは訝しみ、少し苛立つ。花に予定を狂わされたことはないからだ。
坊やはおずおずと動く樋嘴を見上げて言う。「あの、ばーらえさんはどうしてたいせつにそだてたおはなをこどもたちにあげるんですか?」
「どうして? そうだな。どうしてだったかな」
バーラエが答えを見出す前に坊やは蔦に覆われた四阿の方へと走り去った。
バーラエは水門の守護者たちが編み出した呪文に水難除けのまじないを組み合わせた魔術を行使する。大理石製の怪物の口を大きく開けて空を仰ぐと噴水のように水が噴き出し、全ての花に適切な水量を注いだ。
そうして改めて考える。どうして子供たちに花を贈るのか。初めは、泣き止ませるためだったことを思い出す。しかし思い返してみると、初めて恐れ知らずの勇敢な子供に出逢った時も花を贈っている。そう考えてみると、初めから子供が好きだったのかもしれない。
多くの子供たちから教わったように、坊やからも教わったのだとバーラエは気づく。何にせよ命令には反しない。
水やりを終えるが坊やは四阿の長椅子に座ったまま動かない。
「特別なお花はもう良いのか?」
「はい」
坊やは空を見上げているのでバーラエも空を見上げた。青い空を背景に灰色のケボルソンが虹の冠を戴いている。
まだまだ分からないことがある、とバーラエは実感する。
「そう、なぜ大切に育てた花を贈るか、だが」バーラエの言葉を聞いて、坊やはバーラエに目を向ける。「似た者同士、子供たちに笑っていて欲しいから、といったところだろうか」
「それじゃあ、だれかがよろこんでくれるならぼくのこともわたしますか?」
バーラエが考えもしないことを坊やが言い出して笑ってしまいそうになるが、その真剣な表情を見て、誠実であろうとする。
「誰かが喜んでくれて、なおかつ君も喜んでくれるならな。もしも花が嫌がったりしたなら私も無理強いはしないさ」
坊やは控えめながら笑みを浮かべ、椅子を立つ。
「ありがとうございます。とくべつなおはなはみつかりませんでしたが、とくべつなおはなをどうしたいかはわかりました。そしてそれこそがとくべつなおはなのとくべつさたるゆえんなのだとおもいます。ばーらえさん。いつかぼくだけのとくべつなおはながみつかったらうけとってくれますか?」
それもまたバーラエにとって初めてのことだった。花は申し出ないし、何かを贈ってくれたりはしないものだ。