お互いにハテナを浮かべて首を傾げていたが、やがてコユキが口を開いた。
沈黙に耐えられなかったらしい。
「ま、ま、それは良いとして、こんなに穏やかなのに『憤怒』でしたっけ? 良く選ばれましたよね?」
コユキの問いにすぐには答えること無く、顎に手を当てて何やら考えていた『憤怒のイラ』はややあってから言う。
「そうだな、話しても良いが、ねぇちゃん、いや、聖女さんだったら見てもらっても良いだろう、但し、アンタは怒りに免疫が無さそうだ、飲まれるなよ?」
「へ? どうすれば良いの?」
意味が分からなかったコユキが聞くと、イラは真面目な顔で答えてくれる。
「俺の怒りを、憤怒を見せるんだ、怒った経験が無いアンタじゃあ、錯覚して俺の怒りを自分の怒りだと思っちまうかも知れ無いんだ、そうなっちまったらアンタは『憤怒』の罪人、咎人(とがびと)として、永遠に捕らわれる事になっちまう、だから、しっかり自分を持ちながら観察者に徹するんだぜ、まあ、俺としてはアンタと一緒に茶飲み話を続ける事も嫌じゃ無いんだがな」
「ふむ、観察者、か…… 分かった! やってみるわ! 覗き趣味みたいで良い気はしないけどね」
言ってくれるじゃねーか! 誰が覗きだよ! こっちも好き好んで見てる訳じゃねーよ、なんて怒ったりしない充分大人な私、観察者であった。
さて、じゃあいつもの様に、経験を共有させてもらって、悪趣味にも覗きましょうかね、と、割と根に持っちゃうまだまだ子供な私、高齢の観察者である。
コユキと共に経験したイメージの流入は『嫉妬のインヴィディア』のように長い期間の記憶のイメージではなく、ほんの一晩の晩酌中に、酔ったイラ本人が自分の行いを後悔している、そんな独白に近い彼自身の想念であった。
音では無く、彼のオリジナルだっただろう男性の静かな声だけが、コユキと観察者の脳裏に感覚として進入して来た。
深い溜め息だ、俺はこんなにも深い、深すぎる溜め息を酒のアテにする様な男だったのであろうか……
いいや、違うな、酒の味をアテの塩味と共に味わった経験なんて、一遍たりとも無かったのかも知れないな……
そうだ、俺は弱い男だった。
一日の終わりに、酒の美味さを味わい、どんな事でもまあ良いや! と笑い飛ばせる強さは、生来持ち合わせていなかったんだろう、いいや、憧れて、只、模倣しただけなのかも知れ無いな……
はははっ! 笑わせるじゃないか、そんな臆病者が、弱いからこその結果で、この2Kの文化で一人っきり、あいつ等(ら)さえ、失って、いや自ら手放して、今更溜め息なんてな……
酒の美味さを味わえ無い男なんて、他の国じゃどうかは知らんが、酔い、浸り、麻痺し、戦いを楽しんで何ぼのこの国じゃ、何の価値も無い、平穏な時代だけで生きて行ける愚物(ぐぶつ)、所謂(いわゆる)弱虫の部類だろうなぁ、ははは、良いじゃないか、弱い虫、弱虫か…… 確かになぁ。
子供の頃からそうだった。
勿論、自分より小さくて、見るからに虚弱な相手にだったら強く出られた、でも……
自分より強そうに感じた相手や、勝てるかどうか微妙な相手に対しては、まあ、勝手にビビッて戦いを避ける、いや、正直に言えば、媚びたり、諂(へつら)ったり、格好悪い事を繰り返してきたものだ……
そうして、周りの強さを計り続けていた、薄汚れて汚い俺の事を、何故か俺以上に好いてくれる女が目の前に現れてくれた。
あの日は幸福! ってやつをガチで感じたよな、神様ありがとうってなぁ、神の姿も知らない俺がだぜ? なぁ、幸せだって思ったよ!
そうして、只の弱虫から、褒められて嬉しくて、ちょっとマシな男になったんじゃないかって、勝手に勘違いした俺は…… 頑張ったんだったな。
自分の心が折れそうだって?
いや、一切構わずに、ブラック? まあ、最近はそう呼ばれている会社で必死に、それこそ命掛けで頑張ったさ、だって、俺にはその時もう、俺を伝説のヒーローみたいに見続けてくれる女、愛する奥さんがいたからな。
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