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そもそも、冗談っぽくほのめかされたり、元旦那に向かってはそれっぽいことを言っていたが、面と向かってプロポーズされたわけではない。
それに、私は離婚してまだ三か月。
「お母さんがきょ――柳澤さんと結婚するかはまだわからないし、結婚するにしても女の人は離婚の後六か月は再婚できないって決まりがあるの。だから、その話は置いておいて、まずは梨々花と湊と三人での新しい生活のことを考えよう」
「札幌のおばーちゃん家に行くんでしょ?」
「決まりじゃないよ」
「ふーん……」
そうなのだ。
湊が心配で飛んできたものの、何も決めていない。
まさか、昨日の今日で子供を引き取れるとは思っていなかったし、その意気込みではあったけれど、いざそうとなるとどうしたらいいものか。
「お義母さん」
本当はもう義母ではない義母に、私は頭を下げた。
「新しい生活について動き出すまで、この子たちをお願いできませんか」
「あら。私はそのつもりでいましたよ? 明日転校するわけにもいかないでしょう? 私は孫と暮らせるなんて嬉しい限りだから、急がず決めてくれていいわ。札幌のご両親とも話し合わなければいけないでしょう?」
「ありがとうございます」
結局のところ、東京で頼れるのは義母だけだ。
二十年も東京で暮らしてきたけれど、大学時代の友達は就職や結婚で住まいはバラバラだし、社会人になってからの友達はこんな時に頼れるほど親しくなかった。
結婚してからは、表面上のママ友付き合いばかり。
今更だが、必死に生きていたんだなと思う。
善は急げで、お義母さんと吉川さん、子供たちで荷物を取りにマンションへ行くことになった。
その間に、私は匡に連れられてとあるマンションに来た。
義母宅から区を跨いでも車で二十分ほどの場所にある、十階建てで、黒の外壁は高級感が漂う。
単身者向けに見えるが、奥行きがわからない。
タクシーの中で聞いたところによると、トーウンコーポレーションから与えられている部屋。
「ワンフロアにワンルームで、どの部屋もトーウンの関係者が利用している。長期的な目で見ると、ホテルに滞在するよりも安いし、まぁ、会社の資産運用の面からしても都合がいいんだよ」
ふかふかの絨毯に、ピカピカに磨かれて鏡のように私たちの姿を映しそうな室内の壁は、義母宅の応接室のテーブルによく似ている。
「ねぇ、社外監査役って?」
「ああ、それは――」
「――っていうか、どうして東京に来たの?」
「え? それは――」
「――しかも、家族になりたいとか――」
「――ストップ! 落ち着け」
まくし立てる私を制止した匡は、エレベーターの階数表示のパネルをじっと見上げた。
「俺の部屋、八階だから」
「うん?」
「ちゃんと憶えろ」
階数ボタンは、確かに八階が点灯している。
「東京に残るなら、ここを使え」
「え?」
「子供の学校の手続きとかすぐにできないだろ?」
「うん……」
「あと、親権を移すのに弁護士が必要なら俺が手配するから」
「え? いいよ。住む場所も自分で――」
「――いいから!」
珍しく強い口調でそう言った匡は、やっぱりパネルを見上げている。というより、睨みつけている。
怒っているように感じる。
「匡、なんか――」
ポーンッと優しい電子音と共に扉が開く。
同時に、私は匡に肩を抱かれ、引きずられるようにしてエレベーターを降りた。
五メートルほど先の正面には玄関ドアがあり、カードキーをかざすことで開錠された。
「入って」
押し込まれるように部屋に入る。
当然だが室内は静か。
梅雨の蒸した熱気はさらりと吹き流されて、瞬く間に涼しい空気に包まれた。
バタンとドアが閉まると同時に、ウィーンとオートロック機能により施錠されたのがわかる。
「千恵」
背後から抱きしめられ、私の身体はまた熱気に包まれる。
「良かった……」
心から安心したような囁きが耳朶をくすぐる。
「匡……」
「あんな電話で終われるわけないだろ」
冷静になってみれば、随分酷いことをした。
十六年前。大事なことを何も話してもらえないまま別れることになって、自分がどんなに傷つき、怒り、引きずってきたかを思えば、すぐには無理でもちゃんと説明すべきだった。
「ごめん……」
私の胸の前でクロスされた匡の腕に、自分の手を添える。
「ごめん」
ぎゅうっと痛いほど強く抱きしめられた後で、解放される。
「とりあえず、話の前に実家に連絡とか必要ならやっちゃって」
匡が先に靴を脱ぎ、すぐ脇の扉の中からグレーのスリッパを二組取り出した。一組は自分で履き、もう一組を私の足元に置く。
「お邪魔します」と言いながら靴を脱ぎ、スリッパに足を入れた。
「コーヒーでいいか?」
「うん」
匡の後に続いて、廊下を進む。
「冷たいのがいいな」
正面の、ドアが開いていて冷たい空気が漂ってくる部屋はリビングで、大きな窓には小雨が吹きつけられている。
「そっち、座って」
匡はソファを指さし、キッチンに進む。
私は言われた通りに布張りのソファに座り、スマホを取り出した。
実家の母親に電話をして、湊が退院したことと、親権を移してもらうことになったと話した。
母は喜び、空いている部屋を片付けておくと言ってくれた。
「あと、柚葉にもな」
「やっぱり、柚葉から聞いてきたの?」
「ああ」
柚葉には、メッセージを送った。
〈匡に会えたよ。ありがとう。帰ったら会いに行くね〉
『匡』が誰だかわかるだろうかと思ったのは、送信のマークをタップした後だった。
「終わった?」
匡がキッチンから香ばしい匂いを漂わせた真っ白な無地のカップを二つ持って来て、ガラスのテーブルに置いた。
「食いもん、なんもなくて」
「ううん。ありがと」
目の前のカップを手に取り、一口飲む。
やっと、という表現が適切かはわからないけれど、私はほうっとひと息ついて、肩の力を抜いた。
やはり、気が張っていたのだと思う。
昨夜の寝不足もあり、なんだか身体が重い。
私の正面に座った匡も、コーヒーを一口すする。