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「千恵、少し休むか?」
「ううん」
今目を閉じると眠ってしまいそうだし、眠ったらきっとすぐには起きられない。
子供たちが戻る連絡を受けたら、できるだけ早く帰りたい。
「千恵、これ」
匡がテーブルにカードを置き、私の前に滑らせる。
「この部屋の鍵」
「え? でも――」
「――ホントに気にしなくていいから、使って。俺も安心できるし。頼むよ」
匡の上目遣い。
そうだ。
いつもは横に座りたがる匡が正面に座る時は、こうして私より低い位置から上目遣いで困った表情して私に頼みごとをした。
そのどれも大したことではないけれど、その表情に、私はひどく弱かった。
癖なのか、昔を思い出してわざとなのか。
どちらにしても、匡の申し出がありがたいことは確かだった。
「ありがとう」
私が素直に受け入れると、匡はほっとしたように口角を上げた。
「それと、札幌で子供たちを受け入れる準備とか、手伝えることがあったら言って」
「そこまでは――」
「――千恵」
胡坐をかいていた匡が居住まいを正して正座をする。
「さっきも言ったけど、俺は千恵とやり直したい。今度こそ結婚を前提に」
真剣な表情に、私も背筋が伸びる。
ちゃんと話をしなければいけない。
これまでは茶化してきたけれど、再会してからのたった数週間で、匡の本気が痛いほどわかった。
昨日、あんなわけのわからない一方的な別れの電話をしたのに、追いかけてきてくれた。
元旦那に頭を下げてくれた。
子供たちにも誤魔化さずに話してくれた。
「匡、私ね――」
次は私の番だ。
「――離婚する時、子供たちに父親と暮らすって言われて辛かったの。母親、頑張ってきたのに捨てられたって」
「……うん」
「ひとりでお酒飲んで、でも気が晴れなくて、帰ろうとした時に子供の声が聞こえたの。『お母さん』って、湊の声にそっくりだった」
「うん」
匡は相槌を打って、私の言葉を待つ。
「それでよそ見して階段を落ちるとか、死んでも死にきれないよね」
「……」
「旦那や子供に捨てられるような女、もう誰にも愛されないと思った。誰からも必要とされなくなって、それはきっと私が子供たちにとっていい母親じゃなかったからだって」
「…………」
「匡に会いたくなかった。こんな私、見られたくなかった。なのに、病室では匡のことばっかり考えてた。一緒にいた時のこと思い出しては、会いたくないって……思った」
夢にも見た。
目が覚めて、会いたくないと思った。
そんな風にずっと、匡のことばかり考えていた。
「俺も思ったことあったよ。千恵に会いたくないって。惨めな自分を見られたくないって」
「……離婚の時?」
「その前から。結婚して、会社立て直そうと躍起になって、でもうまくいかなくて。子作りも……ダメで」
私たちは、ダメな自分を見せたくない、思い出の中の綺麗な印象のままで憶えていてほしいと強く願うほど、互いを意識し続けていたのだろうか。
「千恵。俺が子供を作れないことが原因で離婚したって話したよな?」
「うん」
「それだけなら、七年もかからずに離婚《わか》れていたはずなんだ」
「え?」
言われてみれば、そうだ。
不妊治療を始める時期は、一年? 二年?
「避妊せずにタイミングを合わせてセックスしていても妊娠しなかった場合、一年を目途に受診するのが普通らしい。二人で受診して検査を受けたらすぐにわかったことなのに、結亜は一人で受診したんだ。まさか不妊の原因が俺にあるなんて思いもしないで」
匡は足を崩し、テーブルの上で両手を組んだ。
「結亜の検査結果が異常なしだってわかった時、すぐに俺も検査をすれば良かったのに、異常のない二人でも相性が良くなくて妊娠しない場合もあるって聞いて、結亜はひとりで悩んでた」
結亜さんは二十二歳で結婚したと言っていた。
政略結婚の上、そんな若いうちに不妊に悩むだなんて、辛かったろう。
「仕事が忙しくてタイミングを逃す月もあったし、結亜が受診したことも知らなかった俺は、彼女の苦しみも知らずに言われるがままにセックスをしてただけだった。それでも、さすがに三年もすれば親からの圧力も半端じゃないし、その頃から仕事も行き詰って、俺も精神的に参ってたんだろうな。デキなく……なったんだ」
「デキないって……?」
匡が視線を自分の手元に落とし、きゅっと唇を結んだ。
それから、視線はそのまで唇を開いた。
「セックス。勃たなくなった」
え……? でも――。
「その後は、もう地獄だよ。薬飲んだり、妄想? 瞑想? に耽ったり」
匡がふっと笑みを漏らす。
私も、なぜか坊主頭の匡が座禅を組む姿が思い浮かび、笑いそうになる。が、もちろん堪えた。
「ストレス解消にキャンプもしたな。色んな趣向のAV見たりもした。けど、全然ダメで。結亜は結亜で、精のつく料理とか、デトックス効果のある飲み物とか取り寄せて、それでもだめだと、お払いとか占いとかに助けを求めるようになって」
確かに地獄だ、と思った。
何かしては期待され、期待が外れるとまた違う何かをして期待される。
子作り、と言えば幸せなイメージだけれど、自分と奥さんの人生を背負っているのが自分の下半身だなんて、勃ち上がるのが怖くなっても仕方がないと思う。
「結局、人工授精することになったんだ。その選択肢は医者から聞かされていたんだけど、俺も結亜もどうしてか踏み切れずにいて。で、俺が無精子症だってわかった」
頑張って頑張って頑張った結果はあまりにも残酷だ。
「俺さ、検査結果聞いたときホッとしたんだ。『ああ、これで解放される』って。最低だろ」
それほどまでに辛かったということだ。
EDになるほどのプレッシャーだったのだから。
「奥さんは?」
「泣いてたよ。それから、怒ってた」
「匡に?」
「いや、なんていうか……」