【現実世界・オルタリンクタワー/サービス導線・深部】
灰色の扉は、開いたというより――ほどけた。
蝶番の音はしない。金属の擦れる音もない。
代わりに、空気が裂けるような、乾いた息の音がした。
扉の向こうは、廊下じゃなかった。
階段でも、エレベーターホールでもない。
“縦に落ちる穴”に近い。
床が一段下がり、下がった先がさらに下へ続いている。
手すりのはずのパイプが、途中から石の欄干に変わっている。
上を見上げれば、タワーの天井。
下を覗けば、異世界の塔の内部みたいな、赤黒い紋の影。
ハレルは喉を鳴らした。
(……ここ、もう“どっち”でもない)
「足元」
セラが言う。
指先で示した先、床に薄く赤い線が走っていた。
さっきまでの焼痕標の赤じゃない。
もっと細い。血管みたいに脈打つ線。
リオが眉を寄せる。
「杭の線か」
アデルが短く肯定する。
「核へ繋がってる」
サキが一歩踏み出す。
スニーカーの底が、金属ではなく石の感触を拾った。
それでも靴音は金属の乾いた響きで返ってくる。
同時に、遠くで水滴の音がする。
(音も、床も、ずれてる)
サキの顔が青い。
けれど、視線は落とさない。
怖さを飲み込んで、状況を見ようとしている。
ハレルはバッグを押さえた。
薄緑のコアが、また脈を打つ。
今度は途切れない。
ただ――黒い粒が増えている。
光の内側で、砂みたいに沈殿していく。
「……生きてるのに、汚されてる」
ハレルが呟くと、リオの目が鋭くなる。
「やらせない」
四人と一人――
ハレル、サキ、リオ、アデル、セラは、赤い線に沿って降りた。
階段は途中で途切れ、次は斜面。
斜面の壁はコンクリだが、ところどころに石の継ぎ目が浮かぶ。
照明は非常灯の白なのに、影は松明の橙を帯びる。
空気が、熱い。
汗が出る。
でも、汗の匂いに混じって、焦げた匂いがする。
ガラスを削った粉の匂いも、確かにある。
(……病院の白い廊下の匂いと同じだ)
ハレルの胃が冷えた。
降り切った先に、広い空間があった。
壁が円形に曲がっている。
タワーの地下のはずなのに、塔の“基礎区画”みたいな形。
天井は高く、上の暗がりに配線が見え――同時に、鎖の飾りが見える。
床の中央に、円い紋が刻まれていた。
赤黒い線が何層にも重なり、中心へ向かって巻き込まれている。
その中心に――杭が三本、刺さっている。
右は折れている。
左は縫われているように、淡い光の糸で補修されている。
真ん中だけが、生きている。
引きずり込みの杭。
赤く強く脈打ち、床そのものが呼吸している。
「……ここが核」
セラの声が低くなる。
「ここで座標が縫われている」
アデルが剣先を杭へ向けた。
「折る」
リオが腕輪を見た。熱が痛みになっている。
「折るなら、順番だ」
アデルが頷く。
「真ん中は最後」
その瞬間、空間の端で黒い影が動いた。
黒ローブ。
さっきより数が多い。
壁の“裏”から湧いてくる。
顔は見えない。
でも、視線だけが刺さる。
見られているというより、測られている。
「来た」
リオが鎖を走らせる。
鎖は床を這い、黒ローブの影へ噛みついた。
影がひきつり、ローブの動きが一瞬止まる。
アデルが剣を振る。
斬撃が黒ローブを裂く。
裂けた箇所から赤い線が飛び散る。
床へ落ち、紋に吸われていく。
吸われるたび、真ん中の杭の脈が強くなる。
「……供給してる」
ハレルが言うと、セラが即座に頷いた。
「血ではなく、術式。杭の栄養です」
サキが唇を噛む。
「じゃあ……倒しても、また湧く……?」
「ええ。杭が生きている限りは」
セラの声は冷静だ。怖がらせない。事実だけを置く。
リオが視線を杭に戻した。
「だから、杭を折る」
「そのために、まず“縫い”を殺す」
アデルが言う。
剣の角度が変わる。
狙いが黒ローブではなく、床の左杭の周辺へ向く。
左杭の周りには、淡い光の糸――
封縫の残滓みたいなものが絡んでいる。
アデルが以前、上書きした痕。
だが今は、それが“足枷”にもなっている。
「リオ」
アデルが短く呼ぶ。
「影を引け。糸を切る」
「了解」
リオが鎖の術式を変えた。
黒ローブの影を引き寄せるのではなく、影を“寄せて”一箇所へ集める。
影が重なり、黒ローブの数体が足を取られる。
アデルがその隙に踏み込み、剣先で淡い糸を断つ。
糸が切れた瞬間、空気が鳴った。
低い音。
塔の地下の石が軋む音と、タワー地下の鉄骨が軋む音が同時に。
左杭の光が弱くなる。
だが、真ん中の杭が赤く強く脈打つ。
歓迎。
それは明らかに――誰かの意思みたいだった。
「……嫌な感じ」
サキが呟く。
ハレルは頷くしかない。
(これ、“仕掛け”じゃなくて“誘導”だ)
(俺たちが進めば進むほど、向こうが喜ぶ)
その時だった。
壁が一拍だけ透明になった。
白い廊下が、重なる。
床に数字みたいな光粒が落ちる。
そして、遠く――金属扉の向こうに、病院の蛍光灯みたいな白が見えた。
同時に、ハレルの背後で、現実のサービス導線の気配が戻る。
配電盤の匂い。
非常灯の点滅音。
どちらも、今ここにある。
リオが歯を食いしばる。
「……同調、進んだ」
アデルが目を細める。
「境目が薄い」
セラが、ハレルとサキの横に立った。
触れない距離。
でも、声は近い。
「ここから先は、見え方が変わります」
「見え方?」
サキが聞く。
セラは頷く。
「あなたたちが“見たもの”が、そのまま戦場になります」
ハレルは主鍵を握り直した。
熱い。
痛いほどじゃない。
けれど、熱の質が変わっている。
“固定”に近い熱。
バッグの中で、薄緑がもう一度脈を打った。
黒い粒が、さらに増える。
脈が、また途切れかける。
(急げ)
(急がないと――日下部が“別のもの”になる)
黒ローブたちが、一斉に動いた。
影が伸び、床の赤線へ触れようとする。
杭へ供給するために。
アデルが剣を構える。
リオが鎖を走らせる。
ハレルは息を吸い込み、サキの肩を軽く叩いた。
「行くぞ」
「……うん」
核の部屋の赤が、白を飲み込み始めた。
白が、赤を飲み返し始めた。
境目が、消えかける。
その“消えかけ”の真ん中で、
真ん中の杭だけが――嬉しそうに脈を打っていた。






