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しそね町プロジェクトの責任者・谷川真也(たにがわしんや)は、小指で耳をほじりながら、堀口の企画書を眺めていた。
正確に言えば、眺めただけだった。
彼が目を通したのは、冒頭の3行にも満たない。
堀口ミノルは、この日をずっと待っていた。
ビスタを黒字化させ、しそね町全体に活力を吹き込むための奥の手だった。ここで引き下がるつもりなど、最初からない。
「ご存じのとおり、このままではビスタは赤字を積み重ね、いずれ廃墟になります。そうなれば、しそね町の商店街をシャッター街に追い込むだけです。町に残るのは、吾妻建設が地域を荒らしたという悪名だけになるでしょう。これは、吾妻会長のご意向にも反するはずです。ビスタはただ建てればいい施設ではありません。利益を生み、町を生かす仕組みにしなければならないのです」
「なるほど」
谷川は、企画書から顔を上げた。
「ということは、君はもしかして、堀口ミノル会長なのかな?」
「はい?」
「吾妻建設企画部の課長ではなく、吾妻グループの堀口ミノル会長なのかと聞いている」
「……いえ。私はただ、企画部の責任者として――」
「ほう。会長でもないのに、会長のお考えがすべてわかると言うわけだ」
谷川は手にした企画書で、デスクに積もった埃を軽く払った。
紙を資料としてではなく、ただの道具のように扱う仕草だった。
「私は、ビスタを黒字へ転換させるために――」
「もう一度聞こう」
谷川の声が、わずかに低くなった。
「誰が、そんな余計なことをしろと言った」
「余計なことではありません。スポーツ専門都市化プロジェクトこそが、しそね町を救う唯一の方法です」
「救う、だと?」
谷川は鼻で笑った。
「吾妻会長がしそね町を救いたかったかどうか、君には手に取るようにわかると言いたいんだな」
濁った声だった。
100キロを超える大柄な体から放たれるその声には、相手を上から押さえつけるような圧があった。
「少なくとも、会長がビスタの建設を決定なさったのは、しそね町を捨てるためではありません」
「また出たな、君の悪い癖が。いや、私が一番気に入らないところと言うべきか」
谷川は椅子の背にもたれ、ゆっくりと堀口を見上げた。
「何でも自分の中で結論を出して、それを正しいものとして押し通そうとする。自分だけが見えていて、他の人間は何もわかっていない。まるで会長を通り越して、神にでもなったつもりだな」
「そんなつもりはありません。谷川所長、どうか企画書を最後まで読んでいただけませんか。これがビスタを生かす唯一の方法だと、きっとご理解いただけるはずです。お願いします」
「ついには、私に企画書の読み方まで教えるつもりか」
谷川は深く息を吐いた。
怒っているというより、怒る権利を楽しんでいるようだった。
そして両手で企画書をつかむと、そのまま乱暴に丸めた。
紙が潰れる音が、部屋に響いた。
堀口が3ヶ月をかけて作り上げた企画書は、くしゃくしゃの塊となり、ゴミ箱へ落ちた。
ああ……。
その瞬間、堀口の全身が硬直した。
体内に冷たい電流が走り、指先まで力が入らなくなる。
谷川は「よっこらしょ」と声を漏らしながら、椅子から立ち上がった。
「目的は何だ? 出世か? 私に代わって、この椅子に座りたいのか? 所長になって、自分でプロジェクトを動かしたいのか。それとも、所長程度では物足りず、もっと上を狙っているのかな?」
「そ、そんなはずありません。私はただ、ビスタをこのままにしておくことが――」
「血と汗を流して、ビスタを黒字にします。時間が足りなければ死ぬほど残業します。それでも足りなければ週末も返上して、命がけで働きます。そういうことか?」
「所長、まずは企画書を読んでください。どうかお願いします」
すべての時間を削って取り組んできた企画書だった。
故郷の未来を明るくするため、全身全霊で完成させたものだった。
「少し黙っていろ」
谷川の声が、部屋の空気を切った。
「そんなに必死になって、君は何を目指しているんだ。サラリーマンはサラリーマンらしく、与えられた仕事をこなしていればいい。責任を取る立場でもないくせに、想像だけは一人前に膨らませる。頼むから、余計な企画を持ってきて、こちらの時間を奪わないでくれ」
谷川が裏で何をしているか。
堀口は、すべてわかっていた。
謝礼費。
手数料。
リベート。
あらゆる名目を使い、小銭をせしめることに執着している。
しかし堀口は、その問題に深入りしなかった。
時間は誰にとっても有限だ。
堀口の時間もまた無限ではなく、他にやるべきことがあまりにも多かった。
汚職の証拠を集め、谷川を追いやるには、相当な時間と労力が必要になる。
仮に谷川を追い出したとしても、次に同じ席へ座る人間が、同じ種類の人間ではない保証などない。
堀口が優先すべきものは、ビスタとしそね町の未来だった。
友人や知人、そして地域住民の幸せがかかった計画だ。どんなことがあっても、諦めるわけにはいかなかった。
「所長。大変申し訳ありませんが、それはできません。社員として会社の利益を追求するのは当然のことです。何より、しそね町は私の生まれ故郷です。故郷をより良くする絶好の機会を、このまま見逃すわけにはいきません。どうか、一度でかまいません。私の企画書をご確認ください」
「会社の利益を追求するのが当然だと言ったな」
谷川は目を細めた。
「では、その努力に結果が伴わなかったらどうする? 君は、サラリーマンであることの最大のメリットを知っているか?」
「いえ、わかりません」
「君のように、無益な夢を描かなくても生きていけることだ。夢を叶えたいなら、今すぐ会社を辞めて、自分で会社を立ち上げればいい。社長にでも何にでもなればいいだろう。少なくとも、私の時間をこれ以上奪う必要はない」
「所長、お願いします。一度でいいので企画書を――」
堀口は込みあげる感情を抑え、深々と頭を下げた。
「厳正なる検討の結果、貴殿の企画は棄却されました」
谷川は、芝居がかった口調で言った。
「これで満足か。もう部屋から出ていけ」
「所長がそのような態度を取られるなら……直接、社長に相談します」
「君は会社の報告システムをよく理解していないようだな。どうぞ、やってみるといい。社長が君の企画書に目を通してくださるかどうか、試してみればいい」
谷川は口の端だけで笑った。
「夢は寝ているときに見ろ。勤務中は、与えられた仕事だけしていればいいんだ」
「埒が明きません。社長のところへ行きます。ビスタを捨てるわけにはいかないんです」
「堀口課長。君は何もわかっていないな。なぜ私が、この場所にいると思う? 君のようなイノシシを食い止めるためだ」
「イノシシ……?」
「計画性もなく突進してくる。止めなければ、周りを壊す。社長も、そういう人間にはうんざりされている」
「少し、表現が過ぎるのではありませんか」
「君だけの話ではない。毎日、私のところにどれだけの企画や提案が上がってくると思ってるんだ。みんな揃いも揃って、荒唐無稽な夢ばかり追っている。おかげでこちらは目も肩も休まる暇がない」
「夢を追うことを否定してはなりません」
「ふん。三流ドラマのようなセリフを吐くな」
谷川の目が、そこでわずかに変わった。
「だから君の身に、あんなことが起きたんじゃないのか」
「……どういう意味ですか」
堀口の手が震えた。
谷川は唇の端を釣り上げ、大柄な体を重たげに回転させてデスクへ戻った。
そして、振り返りもせずに言った。
「遠い夢ばかり見ているから、妻と娘を交通事故で亡くしたんじゃないのか。目の前の現実を、きちんと見ていなかったからそうなったんだろう」
その瞬間、堀口の視界が白く飛んだ。
ドゴッ……!
気づいたときには、堀口のこぶしが谷川の頬をとらえていた。
椅子ごと倒れ込んだ谷川は、何が起きたのかわからないまま、自分の頬に触れた。
切れた唇から、赤い血がにじんでいる。
「……イノシシめ。本性を現したな」
谷川は、怒りに震えながら立ち上がろうとした。
その姿を見つめる堀口もまた、荒い息をあげていた。
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桜白うーろん
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はるか
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