「……それで? 堀口課長。誰がこんな無駄なことをしろと言ったんだ」
しそね町プロジェクトの・谷川真也(たにがわしんや)は、小指で耳をかっぽじった。
谷川が目を通した堀口の企画書は、3行にも満たない。
堀口ミノルはこの日をずっと待っていた。ビスタを黒字経営化させ、しそね町全体に活力を吹き込むための奥の手だけに、引きとどまるつもりなどない。
「誰もが知るように、このままではビスタは赤字を蓄積させやがて廃墟になるでしょう。そうなるとビスタはしそね町の商店街をシャッター街にするだけであり、町を荒らす悪名だけが残ってしまいます。これは間違いなく吾妻会長の意に反するものです。ビスタをただ建設するだけでは、利益は到底望めません。ビスタをゲーム内のショッピングモールのような、誰もいない場所にしてはならないのです」
「なるほど……。ということは、君はもしかして堀口ミノル会長かな?」
「はい?」
「吾妻建設企画部の課長ではなく、吾妻グループの堀口ミノル会長なのかと聞いている」
「……いえ」
「ほう、会長でもないのに、会長のご意向をすべてお見通しと言うのだな?」
谷川は手にした計画書でデスクに積もった埃をはらった。
「私はビスタを黒字へと転換させるために――」
「もう一度聞こう。誰がそんな無駄なことをしろと言った」
「無駄なことだなんて……。スポーツ専門都市化プロジェクトこそが、しそね町を救う唯一の方法なのです」
「救うだって? 吾妻会長がしそね町を救いたかったかどうか、君には手に取るようにわかると言いたいんだな!」
谷川は声帯に毒でも塗ったような汚れた声で叫んだ。
100キロ近いだらしない体格に見合う声だった。
「少なくとも会長がビスタの建設を決定なさったのは、しそね町を捨てるつもりではありません」
「また君の悪いところが出てるな。いや、もっとも気に入らないところと言うべきか。そうやって何でもかんでも断定をする癖だ。自分だけは正しくて、他は間違っている。もはや会長をも超えて、神にでもなったつもりか」
「そんなはずが……。谷川署長、企画書を最後まで読んでいただけませんか。これこそがビスタを生かす唯一の方法であるときっとご理解いただけるはずです。どうかお願いします」
「ついには上司に指示までするのだな?」
谷川は怒り心頭のようで、しきりにフンフンと鼻を鳴らした。そしてそのまま両手で企画書をくしゃくしゃに丸めた。
堀口が情熱を注いだ企画書がゴミ箱へと吸い込まれた。
ああ……。
その瞬間、堀口の全身が硬直した。
体内に電流が伝い、思うように体が動かなかった。
谷川が「よっこらしょ」と言って立ち上がった。
「目的は何だ? 出世か? 私に代わってこの椅子に座りたいのか? 署長になって自らでプロジェクトをコントロールしたいのか? それとも署長では物足りず、より高きを狙っているのかな?」
「そ、そんなはずありません。私はただビスタをこのままにしておくのが――」
「血と汗を流してビスタを黒字にします。時間が足りなければ死ぬほど残業もします。それでも足りなければ週末もすべて捻出し命がけで働きます。そういうことか?」
「署長、どうか先に企画書に目を通していただけませんか。どうかお願いします」
すべての時間を捨てて取り組んできた企画書だった。
故郷の未来を明るくするために、全身全霊で完成させた企画書だった。
「少し黙っていろ! そんなに必死になって何を目指してるんだ!? サラリーマンはサラリーマンらしく静かに暮らせばいいんだよ。責任を取る立場でもないくせに、想像の翼だけはしっかりと広げやがって! 頼むからだまって与えられた仕事だけやってくれ。無駄な企画をもってきて、いちいちこちらの労力を使わせるな!」
署長である谷川が裏で何をしているか。堀口はすべてわかっていた。
謝礼費、手数料、リベート。
あらゆる手を使って、小銭をせしめることに躍起になっている。
しかし堀口はこの手の問題に無関心だった。
時間という概念は、誰にも平等だ。堀口の時間もまた無限ではなく、他にやるべきことがあまりに多かった。
汚職の証拠を集めている暇などなかった。悪人を追いやるためには、相当な時間と労力が必要なのだから。
もし仮に署長を追い出したとして、次にこの場所に座る人物が同じ輩でないという保証はない。
優先すべきは、ビスタとしそね町の未来。友人や知人、そして地域住民の幸せがかかっている計画だ。どんなことがあっても諦めるなどできなかった。
「署長。大変申し訳ありませんが、それはできません。社員として会社の利益を追求するのは当然のことです。何よりしそね町は私の生まれ故郷です。故郷をより良くする絶好の機会をこのまま見逃すわけにはいかないのです。どうか、どうか私の企画書を一度でいいのでご確認いただけませんか」
「会社の利益を追求するのが当然だと言ったな。では費やした努力に対し結果が伴わないならどうする? 君はサラリーマンであることの最大のメリットについて知っているのか?」
「いえ、わかりません」
「君のように無益な夢を描かなくても生きていけることだ! 夢を叶えたいなら、今すぐここを辞めて、自分の会社を立ち上げて社長にでもなれ! これ以上私の時間を奪わないでくれないか」
「署長、お願いします。一度でいいので企画書を――」
堀口は込みあげる感情を抑え、深々と頭を下げた。
「厳正なる検討の結果、貴殿の企画は棄却されました。さあ、答えたぞ。もう部屋から出ていけ」
「署長がそのような態度をとられるなら……直接社長をお尋ねするしかありません」
「君は会社の報告システムをよく知らんようだな。どうぞやってみてくれ。社長が君の企画書に目を通してくださるか試してみればいい。夢は寝ているときに見ろ。勤務中は与えられた仕事だけやってりゃいいんだ」
「埒が明かないので社長のところにいきます。ビスタを捨てるわけにはいかないんです」
「堀口課長。何もわかっていないな。なぜ私がこの場所でこうしているのか。君のようなイノシシを食い止めるためだ」
「イノシシ……?」
「計画性もなく突進してくるイノシシに、社長もうんざりされていてな」
谷川は突き出た腹を撫でながら言った。
「少し表現が過ぎるのではありませんか」
「君だけの話ではない。毎日私の手元にどれだけの企画や提案が上がってくると思ってるんだ。みんな揃いも揃って荒唐無稽な夢ばかり追いやがって。おかげでこっちは視力も落ちて、週末も肩こりに悩まされてるんだ」
「夢を追うことを否定してはなりません」
「ふん、三流ドラマのようなセリフを吐きやがって。そんなだから君の身にあんなことが起こったんじゃないのか」
「どういう意味ですか」
堀口の手が震えた。
谷川は唇の端を釣りあげ、重い体を回転させてデスクへと戻った。
「遠い夢ばかり見るから、妻と娘を交通事故で亡くしたんじゃないのか? 目の前にある現実をしっかりと見ていないからそうなるんだろ」
全身の血が逆流し、堀口は意識を失った。
ドゴッ……!
堀口のこぶしが、谷川の頬をとらえた。
殴られ椅子に倒れ込んだ谷川は、何が起きたのかわからず自分の頬に触れた。切れた唇からは血が流れた。
「……イノシシめ。本性を現したな」
怒りに震える谷川がイノシシのような鼻息を立てた。
その姿を見つめる堀口もまた、イノシシのように荒い息をあげていた。
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