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「……常務」
魚井玲奈(うおいれな)の呼ぶ声で吾妻勇信は我に返った。
「魚井秘書、どうしたのだ?」
「あ、いえ。ずっと石のように固まってらっしゃったので」
「少し考えごとをしてたんだ。すぐ仕事に取り掛かるから、ひとりにしてくれるか」
「承知しました」
魚井玲奈が立ち去るのを確認し、ビジネスマン勇信はパソコンモニターに視線を戻した。
画面は未読メールで溢れかえっていて、デスクの上には大量の書類が積み重なっている。ビジネスマンは自らが置かれた現実をあらためて認識した。
時間は容赦なく流れている。いくら兄の死を嘆いたところで、時間は一瞬たりとも待ってはくれない。
ビジネスマンは何度か首を回してから業務を再開した。
山積みになった書類を一枚一枚確認し、遅れた決済案件にサインをしていく。彼の署名ひとつに何百もの人々が影響を受け、何百もの人々が絶望することもある。
――常に慎重でなければならない。一枚の紙に多くの運命がかかっているからな。
兄勇太の言葉が頭に浮かんだ。
「さてと、次は亜州機器産業の買収に関する報告書か」
ビジネスマンはモニターのチャット画面を見ながら言った。
[それはこっちで対応しよう]
キャプテンの返事がすぐに返ってきた。
吾妻勇信の邸宅事務所。
キャプテンは本社のパソコンと同期させたモニター画面を見ている。
左右に置かれた2台のモニターの片側には、亜州機器産業の買収契約内容。
もう片方にはオンラインショッピングサイトが立ち上がっている。モール内には男性用下着が人気順に並んでいる。
――この買収契約が済めば、吾妻グループは環境ビジネスにおいて業界トップになる。
本社にいるビジネスマンがスピーカー越しにつぶやいた。
「あのな、何度も言ってるがぶつぶつとつぶやかないでくれ。頭の中で思ったことが声になって漏れてる感じが気持ち悪いんだ。毎回ビクッとなるから今すぐやめろ」
――ならおまえもちょっとは黙ってくれ。さっきからパンツ、パンツってうるさいんだよ。履いてるやつの製品コードを検索して注文するだけだろ。今俺たちにとって重要なのは、パンツと企業どっちを買うことだ?
「たかが下着だからって甘く見るなよ。緊急度合いは同じだろ」
――いいからさっさと買ってくれ。間違って買ったんなら捨ててまた買えばいいだけだ。増殖してたった一日で判断力がなくなったのか?
ビジネスマンの言い分にキャプテンはしばし沈黙した。
「正直空腹がひどくて、判断が鈍っている」
今朝本邸で朝食をとったジョーとはちがい、ビジネスマンとキャプテンはほとんど何も食べないまま今をむかえていた。
――そんな精神状態でどうやって亜州機器産業の件を処理するつもりだ……。昨日まで俺たちは同一人物だったんだから、空腹も同じ、体内に残るアルコール濃度も同じだ。要は意気込みのちがいってわけだ。気を引き締めてちゃんと仕事に打ち込んでくれ。
「わかったからもう黙ってくれ。急に玲奈が執務室に入ってきたらどうするんだ」
――内線連絡なしに誰も入ってこれない。すでに全員にそう伝えてある。
「いつからそうなったんだ?」
――今朝の時点で通達しておいたが、どうした?
「共有しろって! 次に俺が出社したときに、同じ通達を出したらどうするつもりだ。俺とおまえは同一人物なんだぞ。それを忘れるなって」
[……しまった、うっかりしてた。環境がちがえば思考が変わるってのは、まさにこのことだな。今後はしっかり共有するようにする。キャプテンが出社する日は永遠にこないにせよ」
昨夜3人の勇信は夜を徹して、今後の計画について話し合った。
これからどう対処していくのか。3人の中で決めておくべきルールとは何なのか。
その中で最も重要なポイントが浮かび上がった。
「キャプテン中心主義」
吾妻勇信の増加が、「増殖」なのか「分裂」なのかはわからない。ただしキャプテンを母体として増えたのは疑いようもなく、従って吾妻勇信という個体の中心にはキャプテンがいなければならない。なぜなら次に増殖する勇信も、キャプテンがもつ情報をもって現れるからだ。
キャプテンは他の勇信の情報をすべて知っておかなければならなかった。でなければ増殖を繰り返すたびに、それぞれの勇信が別の道を歩いてしまうことになる。
「とにかく共有はしっかりと、あとひとり言はやめるように。お互いに」
「わかった。おい、ジョー。今の話ちゃんと聞いてたか」
5秒ほどの沈黙が流れ、通りの騒音が鳴り響いた。
ジョーはボイスミュートを解除してしゃべりだした。
[今プロテイン売り場にきてるんだ。ちゃんと聞いてるからそのまま続けてくれ」
「気が触れたのか? 渡した購入リストにそんなものなかったろ。余計なことしてないで、リスト通りに買ってきてくれ」
リストに書かれたのは、食事の材料や、歯ブラシやカミソリなどの日用品だった。
これまで何もせずとも補充されていた生活必需品は、今後自分で買わなければならない。少なくとも常に3人前を。
――プロテインくらいでねちねち言わないでくれ。そんなことより新しい車が必要だ。高級車じゃなく、一般車をな。それに帽子やマスクなどの変装道具もいるぞ。今後ふたり同時に出かけるケースもきっと出てくるだろうから。
「たしかにそうだな。車や携帯、タブレットPCも買っておかなきゃな」
――ああ、一応日用品は買ったから、あとは布団と枕か。
「わかった。で、どうだ外出は? まさかふたりに増えてないよな? もしも増殖しそうな感覚なんかがあれば、真っ先にトイレに逃げ込むんだぞ」
キャプテン母体論が100%立証されていない現在、ジョーから新たな勇信が生まれる可能性も考慮しなければならなかった。
――現時点ではまったく問題ない。今朝のトレーニングでも何の兆候もなかったしな。そもそも別の自分が現れる感覚って何だよ……。
「そんな感覚、俺にもなかったしな」
キャプテンは自分の体を眺めながら言った。
――あ、はい。あとこっちのプロテインも10個もらえますか。
「おまえ、またプロテインを……」
ジョーはそのままマイクをミュートした。
キャプテンはこみ上げる怒りを抑えながら、パンツを30枚購入した。