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#死亡遊戯で飯を食う
ユイ
86
はるか
26
「……常務」
玲奈の声で、吾妻勇信は我に返った。
「魚井秘書、どうした?」
「あ、いえ。先ほどから、ずっと画面を見たまま固まっていらっしゃったので」
「少し考えごとをしていた。すぐ仕事に戻るから、ひとりにしてくれるか」
「承知しました」
玲奈が退室するのを確認してから、ビジネスマンはパソコンのモニターへ視線を戻した。
画面は未読メールで埋まり、デスクの上には大量の書類が積み重なっている。ビジネスマンは、自分が置かれた現実をあらためて認識した。
時間は容赦なく流れている。
いくら兄の死を嘆いても、業務は止まらない。
取引先も、社員も、市場も、こちらの悲しみなど待ってはくれない。
ビジネスマンは何度か首を回し、業務を再開した。
山積みになった書類を1枚ずつ確認し、遅れていた決裁案件にサインをしていく。
彼の署名ひとつで、何百人もの人間が影響を受ける。救われる者もいれば、絶望する者もいる。
――常に慎重でなければならない。一枚の紙に、多くの運命がかかっているからな。
兄・勇太の言葉が頭に浮かんだ。
「さて、次は亜州機器産業の買収に関する報告書か」
ビジネスマンは、モニターのチャット画面を見ながら言った。
[それはこっちで対応する]
キャプテンからの返事が、すぐに表示された。
*
吾妻勇信の邸宅事務所。
キャプテンは、本社のパソコンと同期させたモニター画面を見ていた。
左右に置かれた2台のモニター。
片方には、亜州機器産業の買収契約に関する資料。もう片方には、オンラインショッピングサイトが表示されていて、男性用下着の一覧が人気順にずらりと並んでいた。
『この買収契約が成立すれば、吾妻グループは環境ビジネスにおいて業界トップに立つ』
本社にいるビジネスマンの声が、スピーカー越しに聞こえた。
「あのな、何度も言っているが、考えをそのまま声に出すのはやめてくれ。頭の中が漏れているみたいで、毎回ぎょっとする」
『なら、おまえも少しは静かにしてくれ。さっきから下着、下着ってうるさい。今履いているものの製品コードを調べて注文すればいいだけだろう。今の俺たちにとって重要なのは、企業を買うことか、下着を買うことか。少し考えればわかるはずだ』
「たかが下着だと思うなよ。こちらも生活の基盤に関わる重要な問題だ」
『いいから早く買ってくれ。間違えたなら捨てて買い直せばいい。増殖して1日で、そこまで判断力が落ちたのか?』
ビジネスマンの言い分に、キャプテンはしばし沈黙した。
「正直に言うと、空腹で判断が鈍っている」
今朝、本邸で朝食をとったブルースとは違い、ビジネスマンとキャプテンはほとんど何も食べないまま昼を迎えていた。
『その状態で、どうやって亜州機器産業の件を処理するつもりだ。昨日まで俺たちは同一人物だった。空腹も同じ、体内に残るアルコール濃度も同じ。違うのは意気込みだけ。気を引き締めてくれ』
「わかったから、少し声を抑えろ。急に魚井秘書が執務室に入ってきたらどうする」
『内線連絡なしに誰も入れない。すでに全員へ通達してある』
「いつからそうなった?」
『今朝の時点だが、どうした?』
「共有しろと言っているんだ。次に俺が出社したとき、同じ通達を出したらどうする。俺とおまえは同一人物なんだぞ。それを忘れるな」
『……完全に忘れていたよ。環境が違えば思考も変わるというのは、まさにこのことだな。今後は必ず共有する。キャプテンが出社する日など、永遠に来ないにせよ』
昨夜、3人の勇信は夜を徹して今後の計画を話し合った。
これからどう対処していくのか。3人の中で、どのようなルールを決めておくべきか。
その中で、最も重要な方針が定まった。
「キャプテン中心主義」
吾妻勇信の増加が「増殖」なのか「分裂」なのかは、またはその他なのかまだわからない。
ただし、キャプテンを母体として新たな勇信が生まれたことは疑いようがなかった。ならば、吾妻勇信という個体の中心には、キャプテンがいなければならない。
次に増える勇信も、キャプテンが持つ情報を引き継いで現れる可能性が高い。
つまりキャプテンは、他の勇信たちの情報をすべて把握しておかなければならなかった。そうしなければ、増殖を繰り返すたびに、それぞれの勇信が別の道を歩きはじめてしまう。
「とにかく共有は徹底する。それと独り言は禁止だ。お互いに」
『わかった。おい、ブルース。今の話は聞いていたか』
5秒ほどの沈黙が流れた。
その向こうで、通りの騒音がかすかに聞こえる。
やがてブルースがボイスミュートを解除した。
『今、プロテイン売り場にいる。ちゃんと聞いているから、そのまま続けてくれ』
「気は確かか? 渡した購入リストに、そんなものは入っていなかったはずだ。余計なものを見ていないで、リストどおりに買ってこい」
リストに書かれているのは、食材、歯ブラシ、カミソリ、その他の日用品だった。
これまで何もせずとも補充されていた生活必需品を、今後は自分たちで買わなければならない。
しかも、常に最低3人分を。
『プロテインくらいで細かいことを言わないでくれ。それより、新しい車が必要だ。高級車ではなく、一般車をな。帽子やマスクといった変装道具もいる。今後、ふたり同時に外へ出る場面は必ず出てくるだろう』
「たしかに、その可能性はあるな。車以外にも複数の端末も用意しておくべきだな」
『一応、日用品は買っておいた。あとは布団と枕か』
「わかった。ところで、外出してみてどうだ。まさか、ふたりに増えたりしてないよな? 増殖しそうな感覚が少しでもあれば、真っ先にトイレに逃げ込め」
キャプテン母体論が100%立証されていない以上、ブルースから新たな勇信が生まれる可能性も考慮しなければならなかった。
『現時点では、まったく問題ない。今朝のトレーニングでも何の兆候もなかった。そもそも、別の自分が現れる感覚って何なんだ』
「そんな感覚、俺にもなかった」
キャプテンは自分の体を見下ろしながら言った。
『あ、すみません。こちらのプロテインも10個ください』
「おまえ、またプロテインを……」
ブルースはそのままマイクをミュートした。
キャプテンはこみ上げる怒りを抑えながら、下着を30枚購入した。
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