テラーノベル
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エレンとの新しい生活が始まってから、私の世界は一変した。
朝、微睡みの中で目を覚ませば、エレンが優しく「おはよう」と太陽のような微笑みをくれる。
食事中も、彼は私の顔色を細かく窺い、体調を気遣ってくれる。
ロニーとの地獄のような生活では、決して考えられなかったこと。
誰かに「大切にされる」という、当たり前でいて奇跡のような感覚が
私のボロボロに傷ついた心を少しずつ、丁寧に癒やしてくれていた。
◆◇◆◇
そんなある日のこと
エレンが「たまには外で羽を伸ばさないか?」と、彼が行きつけにしている少し落ち着いた雰囲気の酒場へ連れて行ってくれた。
「スカーレット、ここは果実酒が美味しいんだ。でも、飲みすぎは体に悪いからほどほどにしときなよ?」
「大丈夫、大丈夫! 今日はとっても気分がいいんだもの」
ロニーという呪縛から解放された極限の解放感。
そして、隣に初恋の人であるエレンがいるという絶対的な安心感。
私は彼の忠告を右から左へ聞き流し、まるで心のタガが外れたように、甘く口当たりのいい果実酒を次から次へと空けてしまった。
数時間後───…
「ほら、スカーレット……! 飲み過ぎだよ。もう帰ろう?」
「ふぇ……? えれん、もういっかい、かんぱーい……」
私は完全に出来上がっていた。
頬を熟した林檎のように真っ赤に染め、視線はとろりと熱を持って定まらない。
最後には机の冷たい感触に抗えず、そのまま突っ伏してスースーと規則正しい寝息を立て始めた。
そんな私を見て、エレンは困ったように、けれどどこか愛おしそうに深い溜息をついた。
「仕方ないな……」
エレンは慣れた手つきで、私の膝裏と背中に腕を回した。
ふわりと体が浮き上がり、お姫様抱っこで軽々と抱え上げられる。
「ん……っ」
小さく吐息を漏らし、私は無意識にエレンの胸に顔を埋めた。
彼は周囲の好奇な視線を遮るように私を自分の体に密着させ
そのまま夜風の吹く外へと連れ出し、馬車へと運び込んだ。
馬車の中でエレンは私を隣に座らせ、私が倒れないように自分の広い肩へ、そっと頭を寄せた。
私は夢うつつの中で「んぅ……」と寝返りを打つように身じろぎをした。
そして、無意識にエレンの逞しい腕を自分の両手でぎゅっと抱きしめ、頬をすり寄せたのだ。
「えれん……すき……っ」
「え……?」
聞き間違いかと思ったはずだ。
けれど、私の小さな唇からこぼれる独白は止まらない。
「私ね……初恋の人と結婚できるなんて……契約婚でも、エレンと結婚できるなんて思わなかったの……。だからね、嬉しいの……っ」
「スカーレット……今、なんて……? 初恋相手って、僕が……?」
エレンが掠れた、熱い声で問いかける。
けれど、私は夢の続きを彷徨うまま、さらに力を込めて彼の腕に縋り付いた。
「うん……エレン、ね……だいすき、ずっと、ずっとすき……」
最後は「ぽすん」とまたエレンの肩にもたれかかり、私は完全に深い眠りに落ちてしまった。
◆◇◆◇
翌朝───…
私は窓から差し込む容赦ない陽光と、ズキズキと響く激しい頭痛で目を覚ました。
「うぅ……飲み過ぎた……」
昨夜の記憶が断片的にしかない。
エレンに抱きかかえられたような、何かを口走ったような……。
嫌な予感と不安に押しつぶされそうになりながら、ふらつく足取りで食堂へ向かうと、そこには既にエレンが座っていた。
「あ、あの! エレン……昨日は本当にごめんなさい! 迷惑かけちゃったみたいで……。今度から飲み過ぎないように気を付けるから…!」
申し訳なさで消え入りそうな声で謝る私。
エレンはしばらく無言で、私を射抜くような強い眼差しで見つめていた。
やがて彼は、手にしていたコーヒーカップをゆっくりと置いた。
「……迷惑だなんて思ってないよ。ただ、昨日のことなんだけどさ」
「……うん?」
「昨日言ってた、僕がスカーレットの初恋相手っていうのは……事実?」
「えっ!!?」
私の動きが、石像のように固まった。
ドクン、ドクンと心臓の音が耳元までうるさく聞こえてくる。
昨夜の甘く熱い記憶が、恐ろしいほどの鮮明さで脳裏に蘇った。
(うそ、私…そんなこと言った?言ったの??)
顔から火が出るどころか、全身が燃え上がるほど真っ赤になり
私は逃げ場を失った小動物のようにオロオロと視線を彷徨わせる。
「そ、それは……! その、お酒の勢いというか……独り言だと思うの!だ、だから忘れて…?」
「忘れる?悪いけど、僕をずっと好きだったと言ってくれた女性を、そのままにしておくほど物分かりがいい男じゃないんだ」
エレンは椅子を引いて立ち上がり、逃げ場を塞ぐようにゆっくりと私に歩み寄ってきた。
そして、私の背後の壁にドンと手をつき
逃げられないように私を閉じ込めると、至近距離で私の顔を覗き込んだ。
壁際に追いやられ動けなくなった私は、エレンを見上げるだけで精一杯だった。
間近で見る彼の瞳は真剣そのもの。
私が本当の気持ちを打ち明けるまで離さないとでも言うように、熱っぽい琥珀の色をした眼差しがじっと私の瞳を見つめている。
「……っ、小さい頃…エレンと遊ぶ約束したときに…新しいピンクのワンピース着ていったら男の子にからかわれたことあったけど…そのとき、守ってくれたの、覚えてる……っ?」
堰を切ったように、胸の奥に押し込めていた想いがあふれ出す。声が震える。
「うん、覚えてるけど…」
「…そのとき、キュンとしちゃって…気づいたら、エレンのこと目で追ってて…エレンと疎遠になってからも、ずっと気になってたの。今も…顔見たら、気持ちが抑えられなくなっちゃった……ごめん」
「…なんで謝るの?」
私は俯いてドレスの裾を握り締めた。
「だって……エレンは私に同情して住む場所を与えるために『妻』でいさせてくれるだけなのに、こんな気持ち抱いてたらエレンにだって迷惑でしょ?それに私だって今さらこんな気持ち……言葉にするつもりなんてなかったの。だから、忘れて欲しいの…」
「迷惑なんかじゃない」
エレンの指先が私の手を取り、冷たいドレスの生地ではなく直接私の肌に触れた。
そのままそっと持ち上げ、壊れものを扱うように撫でる。
「むしろ君が僕を好きだって知って……嬉しくてどうにかなりそうだった」
「……う、うそ、私に気を使ってるの…?」
「嘘じゃない。さっき君が寝てる時だって……すごく可愛いと思ったし」
「へ……っ」
昨夜の失態を思い出して声にならない悲鳴が喉につまる。するとエレンは、蕩けるような甘い笑みを浮かべた。
「信じられないなら何度だって言い直すけど──僕はスカーレットが好きだ、狂おしいほどに好きだよ」
「じょ、冗談じゃ、ないの…?」
血の気が引きかけたが、続くエレンの言葉で今度は一気に体温が跳ね上がる。
「冗談なわけない。これから本気で僕の『奥さん』になってほしいって言ったら……困る?」
長い睫毛の下、琥珀色の瞳が真摯すぎる光で訴えている。
契約じゃなく正真正銘の夫婦として──
その誘惑はあまりに甘美で、抗えない引力があった。
「…そ、そんなの、だって…エレンに好かれてるなんて……大体、友達程度にしか思われてないと思ってたのに…!」
「なら、友達以上に想ってるってこと、証明しようか?」
エレンの顔が、さらに間近まで迫る。
「……っ!」
思わず息を詰める。
彼の手が頬に触れた瞬間、全身の血が沸騰するような熱さが駆け抜けた。
「ま、待って……まだ心の準備が……!」
エレンはふっと微笑んで、焦らすように額にそっと唇を落とした。
「冗談だよ。だけど、僕の気持ちは本気だよ」
鼓動が早鐘を打つ。
これが夢ではないことを確かめたくて、私は震える指先で彼のシャツの胸元をぎゅっと握り締めた。
その晩───…
私は迷いながらも、エレンの寝室の扉の前に立っていた。
深呼吸をして、震える手でノックをしようとした。
けれどそれより早くドアが開かれ、温かな光とともに彼の笑顔に出迎えられた。
「来てくれたんだ」
「うん、少し話したいことがあって」
部屋に通され、パチパチとはぜる暖炉の前のソファに並んで腰掛ける。
隣り合うだけで、彼の清涼な香りが鼻をくすぐる。
「さっきの話……エレンが私を想ってくれてるって……」
「疑う?」
「少し。エレンは優しすぎるし……どうして、私なんだろうって思っちゃうし」
彼の手が、迷いなく柔らかく私の手を包み込んだ。
「それなら時間をかけて分からせていくよ。僕がスカーレットを愛してるってこと」
そっと指を絡められて、また心臓が跳ね上がる。
夜更けに訪れた静寂の中、ふたりの間に言葉以上の濃密な何かが満ちていくのが分かる。
やがてエレンは、少しだけ上気した顔で、確認するように言った。
「もう少し近づいてもいい?」
「……うん」
拒む理由なんてなかった。
自然に肩を寄せ合い、互いの体温を確かめるように寄り添う。
唇が触れそうになる寸前、エレンは吐息を漏らすように囁いた。
「…ねえ、いい?」
「……うん」
言葉を待たずに重なる唇。
一瞬で世界が溶けるような心地よさに包まれた。
触れるだけのキスが、次第に熱を帯びて深まっていく。
やがて唇が離れ、見つめ合う瞳には、もう隠しようのない確かな想いが宿っている。
「スカーレット……僕の初恋も君なんだよ」
「え……?」
「君になにも言えずに引っ越すことになってしまったから…ずっと黙ってた。君が幸せならそれでいいって。でも今は違う、他の男に泣かされる君を見たら、死ぬほど腹が立ったんだ」
その独占欲の滲む言葉は、私の胸の奥に沁み入るように響いた。
「私も……エレンじゃなきゃやだ」
勇気を出してそう伝えると、エレンの瞳が潤んだように見えた。
再び重なる唇。今度はもっと深く、互いの存在を刻みつけるように。
夜が明けるまでの間、私たちの心と体は、分かちがたくひとつになった───。
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