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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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鷲宮伯爵邸の庭は、御堂の庭の三倍はあった。
芝が広がり、白い天幕が張られ、その下に卓が並んでいる。婦人たちの扇と、紳士たちの帽子。楽隊が、どこかで鳴っている。
千歳は玲司の左の腕に手を添えて、芝の上を歩いていた。
若草色の着物。白い絹の手袋。お初が結った髪。右手は、玲司の袖の下にある。震えは、ない。三度目で止まったあの震えは、戻ってこなかった。代わりに、足が、芝に沈むたびに少し遅れた。玲司の歩幅は、縮めたままだ。
「御堂様」
声がかかるたびに、玲司は足を止め、短く答えた。
「こちらが、奥様ですの」
「妻です」
それだけだった。千歳は頭を下げた。名前は、聞かれなかった。御堂夫人、で済んだ。済むことに、千歳は、少しずつ慣れていった。
柘植は三歩後ろにいた。時計を出さなかった。
梢は、天幕の端にいる。
若い男と並んでいる。背の高い、顔の柔らかい男だ。その隣に、年配の婦人。梢は薄い桃色の振袖を着ていて、それも、梢には少し大きい。
梢が千歳を見た。
人前の顔だ。扇を開いて、口元を隠して、隣の婦人に何か言う。婦人が千歳を見た。それから、隣の別の婦人に。
囁きが、天幕の下を伝わっていくのが、見えた。音は聞こえない。扇が動き、目が動く。千歳の、右手のほうへ。
「離れるな」
玲司が、前を向いたまま言った。
千歳は腕から手を離さなかった。
婦人が一人、近づいてきた。恣幅がよく、扇が大きい。名は知らない。
「御堂様。お久しぶりでございますこと」
「ご無沙汰を」
「こちらが、奥様」
婦人の目が、千歳を上から下まで見た。若草色を見て、髪を見て、手袋で止まった。
「有明家の、お嬢様とか。妹御のほうと伺っておりましたけれど」
玲司は答えなかった。婦人は扇の陰で笑った。
「奥様。失礼ですけれど、その手袋。五月に、絹の手袋は暑うございましょう。お取りになって」
千歳の手袋の下で、右手が熱くなった。
梢の囁きだ。身代わりの姉。右手に、気味の悪い痕。それが扇から扇へ伝わって、この婦人のところへ来た。来て、手袋をお取りになって、と言わせている。
玲司の腕が、動いた。
千歳の手を、取ろうとしている。この人は、取るだろう。あの広間でしたように、布を解いて、持ち上げて、私の妻の手だ、と言うだろう。
その前に。
千歳は、玲司の腕から手を離した。
左手で、右の手袋の指先をつまんだ。一本ずつ、引いた。絹が、指から抜けていく。婦人の扇が止まった。梢の扇も、遠くで止まった。
手袋が、外れた。
右手の甲が、五月の光の下に出た。赤く引きつれた痕。千歳はそれを、隠さなかった。袖に戻さなかった。手袋を左手に持って、右手を、婦人の前に出したままにした。
玲司が、その手を取った。
取って、持ち上げた。あの広間と同じだ。けれど、今度は、千歳が先に出した手だった。
「私の妻の手だ」
玲司は婦人を見て言った。
「見たければ、どうぞ」
婦人は、扇を上げた。口元が隠れた。目だけが、千歳の手を見て、それから玲司を見て、何も言わずに、頭を下げた。下げて、離れていった。
扇の列が、動いた。囁きが、今度は逆向きに伝わっていく。梢のほうへ。
梢の隣の年配の婦人が、梢を見た。眉が、寄った。それから、隣の若い男に何か言った。男は困った顔で、梢と婦人を交互に見て、何も言わなかった。
梢は扇を握っている。笑っていない。
千歳は、梢を見なかった。玲司の手の中の、自分の手を見ている。
「戻せ」
玲司が言った。手袋のことだ。
「……はい」
千歳は手袋をはめ直す。はめ直してから、玲司の腕に手を添えた。震えは、やはり、なかった。
芝の上を、また歩き出した。玲司は前を向いたままだった。
「自分で、外したな」
「……はい」
「そうか」
それきりだった。それきりだったが、玲司の歩幅が、さっきより、もう少し縮んだ。千歳は遅れずに歩けた。遅れずに歩けることが、こんなに難しくて、こんなに簡単なのだと、初めて知った。
三歩後ろで、柘植が、小さく咳をした。時計を見る音は、しなかった。
「御堂」
天幕の裏手で、声がした。
若い男だった。眼鏡をかけ、鞄を提げている。玲司と同じくらいの年だ。男は鞄を右手から左手に持ち替えて、帽子を取った。
「相馬」
玲司が言った。声が、わずかに緩んだ。千歳はそれを聞き逃さなかった。この人の声が緩むのを、初めて聞いた。
「来ていたのか」
「鷲宮の爺様の往診だよ。ついでに、ご馳走になりに」
相馬と呼ばれた男は、千歳を見た。よく笑う顔だった。
「御堂夫人ですね。僕は相馬。御堂の学生時代からの友人です。医者をしています」
「有明……御堂の、妻で、ございます」
名を言いかけて、止まった。相馬は気にしなかった。気にしないふりが、うまかった。
「さっきの、見てましたよ」
相馬は千歳の手袋を見て言った。
「痕は、恥じゃない。僕はそう思ってます。職業柄ね」
玲司が「相馬」と言った。止める声だ。相馬は肩をすくめた。
「分かった、分かった。じゃあ、一つだけ」
相馬は帽子をかぶり直して、千歳に、少し身を寄せた。玲司に聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
「あの方は、まだ、夜しか灯りをつけませんか」
コメント
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うわあああ第15話読んだよ〜〜!😭💕 千歳が自分で手袋外したシーン、めっちゃグッときた…!玲司が「私の妻の手だ」って言うの2回目だけど、今回は千歳が先に出した手なのが違うんだよね…成長してる…!玲司の歩幅が縮まる描写も細かくてエモすぎる…そして最後の相馬先生の「夜しか灯りをつけませんか」が気になりすぎるんだけど!!続き早く読みたい…!🔥