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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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あの方。
千歳は答えられなかった。あの方とは誰か。夜しか灯りをつけない。離れのことだ。それは分かる。分かるのは、そこまでだ。
「相馬」
玲司が、もう一度言った。今度は止める声より、低かった。
相馬は両手を上げた。
「失礼。医者の悪い癖でね、聞かなくていいことまで聞く」
帽子の縁に手をやって、頭を下げた。
「御堂夫人。また、お会いしましょう。たぶん、近いうちに」
相馬は天幕の表へ戻っていった。鞄を右手に持ち替えて、婦人たちの間を抜けていく。誰にでも笑いかけて、誰とも話し込まない歩き方だった。
千歳は玲司を見上げた。玲司は相馬の背中を見ていた。
「帰る」
それだけ言って、腕を差し出した。千歳は手を添えた。
帰りの自動車の中は、暗かった。
権田が運転している。玲司は窓の外を見ていた。千歳は手袋の手を膝に置いて、揺れに合わせて、少しずつ玲司のほうへ傾かないように、座席の端を握っていた。
「相馬は」
玲司が言った。窓の外を見たままだ。
「友人で、医者だ」
「……はい」
それ以上は、なかった。
千歳は待った。待っても、来なかった。友人で、医者。それが全部だ。あの方、という言葉も、夜しか灯りをつけない、という言葉も、玲司は拾わなかった。拾わないことで、答えていた。
今日は園遊会のあとだ。十年前のことは、園遊会のあとだ、とこの人は言った。
千歳は聞かなかった。聞けば、答えるだろう。答えさせる日を、今日にしたくなかった。手袋を自分で外した日だ。それで、十分だった。
自動車が門を抜けた。玲司が、初めてこちらを見た。
「今日は」
千歳は顔を上げた。
「……よく歩いた」
それだけだった。それだけで、千歳は座席の端を握る手を、ゆるめた。
玄関には、お初と文が出ていた。文は千歳の若草色を見て、手袋を見て、それから顔を見て、何か言いたそうに口を開けた。
「文」
お初が先に止めた。止めてから、お初自身が聞いた。
「奥様。歩けましたか」
「……はい。歩けました」
お初は頑いて、「髪、ほどきますよ」と言った。千歳は「自分で」と答えた。答えてから、お初が少し笑ったのを見た。
夜、千歳は髪をほどく。
お初が結った髪を、自分でほどくのは惜しい。惜しいと思ったことに、鏡の前で、少し驚いた。髪を惜しいと思ったことが、十年、なかった。
窓を開ける。
離れの灯りがある。黄色い、障子の灯り。夜しか灯りをつけない、と相馬は言った。昼は白い障子。夜は黄色い。千歳がこの家で見てきたとおりだ。相馬は、それを知っている。
影が、動いた。
母屋の脇から、庭を横切る影。あの夜と同じだ。提灯を持たず、梅の木の間を慣れた足で抜けていく。
今夜は、月があった。
顔が、見えた。
眼鏡が、月の光を一度返した。鞄を提げている。背格好は、あの夜の男と同じだ。玲司より少し低い。
相馬だった。
相馬は離れの戸の前で立ち止まり、戸を叩いた。二度。間を置いて、一度。
戸が内から開き、灯りが庭に漏れ、相馬の影がそこへ入って、戸が閉まった。
千歳は窓枠を握っていた。
男は、相馬だ。医者で、玲司の友人。あの夜から、ずっと、この人が通っていたのだ。夜に、離れへ。
医者が、夜に通う。
離れには、誰かがいる。医者の要る誰かが。若い女だ、と梢は言った。髪が長くて、白いものを着ていた、と。
相馬は、園遊会で言った。痕は、恥じゃない。職業柄、と。
医者で、火傷の痕を恥じゃないと言う人が、夜ごと、離れに通う。千歳はその二つを、並べなかった。並べれば、何かが見えそうで、見えたものを、玲司より先に知ってしまう気がした。
「見たか」
背後で、声がした。
千歳は振り返らない。振り返らなくても、分かる。障子は、開いたままだ。玲司は戸口にいる。
戸口から、入ってきた。
この部屋に玲司が入ってくるのは、初めてだ。畳を踏む音が、千歳の隣まで来て、止まった。
並んで、窓の外を見た。離れの灯り。相馬が入っていった戸。
「怖いか」
玲司が言った。
千歳は、離れを見ていた。
怖い。怖くないと言えば、嘘になる。夜に医者が通う離れ。近づくな、と言われた離れ。梢が叫んだ離れ。
けれど、灯りは、見られると消える。あの夜も、梢のときも。見られたくない人が、あそこにいる。見られたくない気持ちは、千歳の右手が、十年、知っている。
「いいえ」
玲司は何も言わなかった。しばらく、言わなかった。
「……そうか」
声が、低かった。
千歳は、玲司のほうを見なかった。見ないまま、窓枠を握っていた。玲司の手が、同じ窓枠の、少し離れたところを握っているのが、分かった。左の手だ。洋服の袖口は、夜なのに、釦が留まったままだった。
「離れには」
玲司が言った。
「私の、大事な人がいる」
千歳の手が、窓枠の上で、止まった。
聞かなかった。誰か、とは。
玲司も、言わなかった。
離れの障子の灯りが、少し、動いた。誰かが、灯りを持って、歩いたのだ。
大事な人。若い女だ、と梢は言った。医者が通う。夜しか灯りをつけない。
千歳は、窓枠から手を離さなかった。離せば、何かを聞いてしまう気がした。
コメント
1件
もう玲司さんの「離れには、私の大事な人がいる」って台詞にやられた…!😭💕 今まで遠回しに隠してきたこと、初めて千歳の前で口に出した瞬間が重すぎて泣く。怖いって聞かれて「いいえ」って答えた千歳の強さも尊いし、それ以上は聞かない距離感が二人らしくてエモい…。相馬先生が夜な夜な通う離れの謎、次回が気になりすぎる!!