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「今日こそ結婚しろ!」
太陽の言葉に、事務所内が静まり返る。のは一瞬で、すぐにキーボードを叩く音が鳴りだす。
「仕事してください、社長」
私も太陽を一瞥して、手元の領収書に視線を戻した。
「してるだろ。仕事を頑張ったら結婚してくれるって誰かさんが言ったから、その言葉を信じてがむしゃらに!」
太陽は私の頭の上からキャンキャンと喚く。が、やはり私はスルー。
「社員の生活を背負ってる自覚、あります?」
「俺は! ひなたの生活を背負いたいんだ!」
「そういうセリフは、私を本職の給料と同額で雇えるようになってから仰ってください」
ぐっと喉を鳴らし、太陽は自分のデスクに戻った。社長なのに社員と同じ椅子に腰を下ろす。
「よく、まぁ、飽きずに毎日同じことを」
そう言いながら呆れ顔で事務所のドアを開けたのは、副社長。
「いい加減、諦めたら?」
「そうだ! 諦めて結婚しろ」
「いや、諦めんのはお前だよ」と、高校時代からの友人だからこその絶妙な被せ気味の突っ込みが入る。
「なんでだよ!?」
「ひなたさんにタダ働きさせてる時点でアウトでしょ」
五人の社員がうんうんと頷く。
「だから! あっちをやめてうちで正式に――」
「――今と変わらない年収なんて、払えないでしょ」
またも、太陽がぐっと喉を鳴らした。
「あーっ、もう! なんで昇進とか! 昇給とかしてんだよ!!」
「誰かさんが作ったシステムが高評価だったから、提案した私の評価も上がったんじゃない」
「それで結婚が遠のくとか! なんであんな完璧なシステムなんか作ったんだ、俺!」と、太陽が演技染みた台詞を言い、頭を抱える。
「はい。その完璧なシステムの導入依頼書」
副社長が透明なクリアファイルに入った書類を社長のデスクではなく、私のデスクに置いた。
「ご苦労様です」
副社長はジャケットを脱いで自分の机に放ると、キャスター付きの椅子を引き寄せて、私の正面に座った。
「いえいえ。先方は出来るだけ早い返事を欲しがってました。新社屋完成まで二カ月しかないのに、契約していた会社が倒産したらしいです」
「それはお気の毒に」
「なので、システムの変更は不可能だとハッキリ言ってきました。契約書にもその旨を明記することも。なにせ、従業員が百八十人ですからね。初期登録だけで手一杯ですから」
「そうですね。ただ、返事は週明けにしましょう」
「ですね。けど、すぐに作業に取りかかれるように準備はしておきます」
「お願いします」
副社長は座ったまま自分のデスクに滑って行った。
じとっと粘り気のある視線を感じ、私はため息をつく。
「社長、お仕事を――」
「――憶えててくれたんだ。俺が社長だってこと。存在を完全無視されてたんで、忘れられてると思ってました!」
太陽が不貞腐れた顔をして、デスクに背を向ける。
自分より私の方が書類仕事に慣れてるから、頼むって言ったのは自分なのに。
太陽と一緒に暮らし始めて一年、彼の事務所を手伝うようになって三か月が過ぎた。
こうして毎日、太陽から結婚の催促をされるのだが、未だに入籍はしていない。
一緒に暮らしてみたら違った、なんてことのないように、お試し期間を三か月設けて一緒に暮らし始め、三か月後には私のマンションを売却した。ローンを完済し、太陽のご両親に会った。
年の差に驚かれたし、心配もされた。が、その後三か月ほど交流を深めて、お許しを貰った。
私の両親にもかなり心配されたが、最後は私の気持ちを尊重してくれた。
さあ結婚だ、と太陽から嬉々として記入済みの婚姻届を渡された直後、太陽のお父様が事故に遭われた。
幸い軽症で済んだが、完治するまで入籍は控えようと私が言った。
そうしているうちに、私の提案で太陽が開発したシステムが完成し、雑誌にも取り上げられると、仕事の依頼が殺到した。
同時に私も早期退職を促された部長に変わってその椅子に座り、昇給もした。
そうなると、仕事を辞めがたくなる。
お互い、仕事に忙殺されながらも充実した日々を送っているうちに、入籍を急ぐ必要はないのではと思うようになった。
ついでに、毎日結婚したいと言う太陽の気持ちが嬉しくて、ギリギリまで焦らしたいという邪な考えもあった。
で、|現在《いま》に至る。
若き社長から、ひと回りも年上の女を婚約者と紹介された社員たちは驚きはしたものの、「社長にも事務所にも、頼れる女性が必要だ」とのこと。
付き合いの長い副社長は、「前の奥さんの時は、なんか気取ってる感じがして、現実味がなかったんだよね」とすら言った。
どうやら、自己主張が強く、我儘で、甘ったれな太陽が、素のようだ。
とにかく、そうして、私は毎週土曜日と、月に一、二日有休を取って彼の事務所を手伝っている。無償だから、副業禁止の就業規則違反にはならない。
太陽は自分の給料を減らしても、私を本業と同じ給料で雇うと言ったのだけれど、そんなことをするくらいなら社員の給料を上げて欲しいと私が頼んだ。
給料が上がってモチベーションが比例すれば、売り上げも上がる。
太陽は不満そうだったが、副社長は賛同してくれた。
実際、先月のボーナスは全社員に給料の三か月分を支給できたし、来月の決算後には、社長と副社長の役員報酬を増額することも決まっている。
「ひなたさんて、アゲマンだよね」
終業時刻十分前に、副社長が呟いた。
「え?」
「ある程度軌道には乗ってたけど、ひなたさんが手伝ってくれるようになってから、業績が爆上がりした」
「それはみんなが――」
「――そうやって俺たちを労わってくれるのも、ひなたさんだけですよ」と、太陽が前の会社から引き抜いた後輩くんが、学生のような眩しい笑顔を弾けさせる。
彼と私は十八歳も違う。
「若い男性にそんな風に言ってもらえるなんて、光栄だわ」と、ちょっと大人の余裕を気取って答えた。
「ひなたさん見てると、俺も年上の彼女が欲しくなります」
「なに言ってんの。若くて可愛い方がいいに決まってるでしょう?」
「そんなことないです! マジで! 俺、ひなたさんのこと――」
「――クビになりたいのか」
珍しく黙々とパソコンに向かっていた太陽が、ギロッと眼球を後輩くんに向けて言った。
真顔で、低い声で。
「俺の女を名前で呼ぶな。エロい妄想すんな」
「社長! なにバカなこと――」
「――すいません!」と、後輩くんが椅子から立ち上がって頭を下げる。
「もうしません!」
え、マジでエロい妄想してたの?
あ、いや、名前で呼ぶ方か。
「けど! いずれはひなたさんも社長と同じ名字になるわけですから、名前で呼ぶのは許可してください」
「やめるのはエロい妄想の方か……」と、副社長が呟く。
「え? あ、いやっ。すいません!」
「ははっ。正直すぎ」と、一年前に入社した彼も笑う。
太陽がガタッと椅子から立ち上がる。
「もう限界だ! ひなた、今すぐ――」
「――はいはい」
彼の言葉を遮って、私も立ち上がる。
パソコンをシャットダウンして、一番下の引き出しからバッグを取り出す。
「ちょっと早いけど、お先に失礼します」
「お疲れさまでした」と、副社長。
「待てよ、ひなた! 冗談じゃなく――」
「――今夜は満月が綺麗ですよ」
私は太陽に言った。
「一緒に見ませんか?」
「え――?」
今日で、私と太陽が再会してちょうど一年。
不安は完全に拭えないけれど、彼を信じたいと思う。
「年上は、範疇外?」
彼の背には、濃淡のオレンジが層をなしている。
太陽の影に隠れて見えない月が、もうすぐ輝きだす。
太陽はニッと笑う。
「ひなた以外は、範疇外」
「信じるわ、その言葉」
バッグから茶封筒を取り出し、差し出す。
太陽はそれを受け取り、中の薄っぺらな紙を引っ張り出して広げた。
そして、それを見て、顔をくしゃくしゃにして笑った。
「やった!」
完成した婚姻届。
「おめでとう、太陽」
「社長、おめでとうございます!」
副社長と社員の言葉に、太陽が満面の笑みで答える。
「万が一、太陽がひなたさんを裏切るようなことがあったら、おれはひなたさんについて行くから」
副社長の言葉に、他のみんなも頷く。
「そんなことあるわけ――」
「――だから安心して幸せになってよ、ひなたさん」
「ありがとうございます」
「だーかーら! なんで俺を無視して――」
「――ほら! 早く区役所に行こう」
ヒールを鳴らして、私は事務所を後にした。
後ろからは、太陽が足早についてくる。
私は振り返って、彼の腕に自分の腕を絡めた。
沈みゆく太陽の下、絶望の渦中に出会った私たちは、満月に思いを馳せながら明るい未来へと歩き出した。
—– END —–
コメント
2件
めでたしめでたし🎵
一気読みしちゃいました💕素敵な作品、ありがとうございました(^人^) この先もずっと見ていたい2人です♪続編があったら嬉しいなぁ〜💕