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第一話「標本の作り方」
五月の校舎は、甘い腐敗の匂いがする。
藤棚から落ちた花びらが昇降口の前に積もって、誰かに踏まれるたびに紫の染みを石畳に残していく。尖崎灰次はその染みをひとつひとつ避けながら歩いた。避けなくてもいいのはわかっている。ただ、避けないと気が済まなかった。自分でも理由はよくわからない。たぶん、汚すのが怖いのだ。もうとっくに、汚れているくせに。
靴箱を開ける。
案の定、上履きの中に何かが入っていた。今日は消しゴムのかすだった。昨日は画鋲で、一昨日は水で濡らした紙だった。灰次はそれを無表情でゴミ箱に捨てて、上履きを履いた。慣れている、と言えるほど達観もしていないし、傷ついている、と言えるほど繊細でもなくなった。ただ処理する。ただ通過する。自分の感情がどこかの排水溝に流れていったのはいつのことだったか、もう思い出せない。
一年B組の扉を開けると、教室の空気が一瞬だけ変わった気がした。変わった気がしただけで、誰も振り返らない。誰も見ない。いてもいなくても同じ存在として扱われることに、灰次はとっくに慣れていた。自分の席に座って、教科書を出して、窓の外を見る。それだけが朝のルーティンだ。
窓の外では、さっき見た藤棚がまだ風に揺れている。
その下に、葛城藍が立っていた。
葛城藍というのは、そういう人間だった。
どこにいても、空気が変わる。教室に入れば会話が途切れ、廊下を歩けば視線が集まり、誰かと話せばその場が特別になる。べつに何か特別なことをしているわけじゃない。ただそこに存在しているだけで、周囲の人間が彼女を中心に配置されてしまう。重力みたいなものだと灰次は思っていた。意志とは関係なく、そこにある力。
黒髪は肩のあたりで緩く内巻きになっていて、制服の着こなしは校則ギリギリのところを綱渡りしている。目は一重で、笑うと糸のように細くなる。そこだけ見れば怖い顔にも見えるのに、なぜか誰も怖いとは言わない。むしろ逆だ。あの目に見つめられると、自分だけが特別に選ばれたような気がして、胸がじわりと温かくなる。
灰次も、そうだった。
藤棚の下の藍は、誰かと話しているわけでもなく、スマートフォンを見ているわけでもなく、ただぼんやりと空を見上げていた。それだけなのに、絵になった。写真に撮ったら雑誌の表紙みたいになる、と思ったことがあって、でもそんなことを口に出したら変な人間だと思われる気がして、灰次はいつも黙っていた。
黙っていることには慣れている。誰かに話しかけることも、話しかけられることも、どちらもほとんどない毎日の中で、黙っていることだけが灰次の得意なことだった。
藍が視線を落として、ちょうど灰次の座っている窓の方を見た。
目が合った、と思った瞬間、藍は薄く笑った。
灰次は反射的に視線を逸らした。心臓が変な音を立てた。
藍が初めて話しかけてきたのは、三週間前のことだ。
放課後の図書室だった。灰次にとって図書室は、いじめっ子たちが滅多に来ない数少ない場所のひとつで、だから放課後はいつもそこにいた。本を読んでいるわけでもなく、ただ時間をやり過ごすためだけに、窓際の席に座って外が暗くなるのを待つ。帰っても家には何もない。父親は三年前に出て行って、母親はパートから帰ると焼酎を飲んで寝る。灰次が何かを話しかけても、うるさいと言われるか、無視されるかのどちらかだ。だから家より図書室の方が、まだよかった。
「ここ、いい?」
声がして顔を上げたら、藍がそこに立っていた。
灰次は三秒ほどフリーズした。なぜここに。なぜ自分の隣に。図書室には他にも席がある。がらがらに空いている。なのに、なぜ。
「……どうぞ」
絞り出した声は思ったより掠れていた。藍は当たり前のように椅子を引いて座った。手元には文庫本があったけれど、開かなかった。ただ窓の外を見て、それからふと灰次の方を見て、
「最近、顔色悪いね」
と言った。
灰次は何も言えなかった。そんなことを言われたのは初めてだった。悪口じゃない。でも褒め言葉でもない。ただの観察。なのに、なぜだか喉の奥が詰まるような感じがした。
「……そうですか」
「うん。なんか、しんどそう」
藍は灰次の顔をまっすぐ見て言った。視線を逸らさない。値踏みするわけでも、哀れむわけでもなく、ただ見ている。それだけなのに、灰次はなぜかその視線から逃げられなかった。
「しんどい理由、話せる?」
話せるわけがなかった。クラスメイトにやられていることを、学校のマドンナに話すなんて。惨めになるだけだ。笑われるだけだ。でも藍は待った。急かさなかった。ただそこにいた。
灰次はゆっくりと、少しだけ、話した。
上履きのこと。無視のこと。体育の授業で誰もペアになってくれないこと。
藍は最後まで黙って聞いて、それから、
「そっか」
と言った。それだけだった。解決策も、慰めの言葉も、何もなかった。
なのに灰次は、三年ぶりくらいに泣きそうになった。
それから藍は、ときどき図書室に現れた。
決まった曜日があるわけじゃない。いるときもあるし、いないときもある。でも週に二回か三回は隣に座って、他愛のない話をした。今日の給食がまずかったとか、数学の先生の口癖がうるさいとか、そういう話。灰次のことを直接的に助けようとするわけでも、かわいそうだと言うわけでも、何もしなかった。ただいた。
それが、奇妙なほど心地よかった。
「灰次って、なんか面白い形の耳してるね」
ある日、藍がそう言った。唐突すぎて灰次は固まったが、藍は続けた。
「ちょっと尖ってる。妖精みたい」
「……妖精は言いすぎです」
「言いすぎじゃないよ。かわいいと思って言ってる」
かわいい。
その単語が灰次の頭の中で数秒間だけ宙に浮いて、それからゆっくり沈んだ。誰かにそんなことを言われた記憶が、どこを探してもなかった。母親にも、かつての友人にも、誰にも。
「……ありがとう、ございます」
「ございます、ってなんか堅い。藍でいいよ」
藍は笑って、文庫本を開いた。
灰次は窓の外を見た。五月の空はまだ明るくて、夕焼けになるまでもう少し時間があった。隣から、ページをめくる音がした。
この時間が続けばいいと、思った。
続けばいいと、思ってしまった。
愛の刻印、あるいは毒の白昼夢、という言葉を、灰次はまだ知らない。
自分がいま受け取っているものが何なのか、それがどこへ向かっていくのか、何も知らない。ただ図書室の窓際で、藍の隣にいると、あの家の息苦しさも、教室の冷たさも、全部が遠ざかっていくような気がした。
麻酔みたいだ、と思ったことがある。痛みが消えるのは本物だけれど、それは治ったわけじゃない。ただ感じなくなっているだけだ。
でもそのとき、灰次はそんなことを考えなかった。
考えられなかった。藍が隣にいると、うまく考えられなくなるから。
外では藤の花が散り続けていた。踏まれるたびに紫の染みを残しながら、誰に気づかれることもなく、ただ消えていく花びら。
灰次はそれをきれいだと思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
くるぶしの骨
꒰ঌ面長ちゃん໒꒱
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