テラーノベル
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浅草区役所の門前は、思ったより賑やかだった。
門を出入りする人の流れに沿って、間口の狭い店がずらりと並んでいる。軒先の看板には、どれも似たような文字。「代書」「代筆」「諸届」「筆耕」。
数えると、目に入るだけで七、八軒あった。
私は、本所から持ってきた木綿の縞の普段着を、行李の底から出してきた。髪は後ろで一つに束ねただけ。帯にはルーペと、侯爵様の蝦蟇口。
屋敷を出るとき、真柴さんには「父の薬を届けに」と言った。
侯爵夫人には見えないはずだ。浅草の路地を歩いている、ただの貧しい娘に見えればいい。
*
一軒目は、区役所の真ん前の店だった。
帳場の奥で、羽織の老人が筆を走らせている。
「あの、田舎の母に手紙を出したいのですけれど」
「はいはい、文面を言ってごらん」
「それと、機械で打ってもらうこともできますか」
「機械? うちは筆一本だよ。タイプなら、もう二、三軒先だね」
私は手紙を頼まずに頭を下げて、店を出た。
二軒目には、タイプライターがあった。
「田舎の母に、宛名だけでも機械で打ってもらえたら、喜ぶと思うんです。お代は、いくらですか」
若い店主は面倒くさそうに、それでも用箋に「母上様」と打ってくれた。
様。細い明朝。ほかの字と揃っている。
違う。
私は三銭を払って、紙を受け取った。
三軒目の機械も、様は揃っていた。
店主は、宛名だけ打たせて帰っていく娘を、胡散臭そうに睨んだ。
「冷やかしなら、よそでやっとくれ」
追い出されて、路地に出る。
日が傾き始めていた。朝から歩き通しで、足の裏が熱い。草履の鼻緒が指の股に食い込んで、じんじんと痛んだ。
嫁入りのときに父が買ってくれた草履だった。もともと安物で、底はもう薄い。
*
四軒目は、区役所の通りから一本入った路地の奥にあった。
板の看板は雨に晒されて、木目が浮いている。墨の字も半ば擦れていた。
「筆耕 松葉堂」。
私は、看板の前で足を止めた。
擦れた墨の下に、彫り込んだ溝が残っている。字を彫ってから墨を入れた看板だ。昔は、もっと立派な店だったのかもしれない。
格子戸を開けると、鼻眼鏡の老人が、文机の向こうで顔を上げた。
狭い店の奥、窓際の台に、黒いタイプライターが一台。活字皿の上に、うっすらと埃が積もっている。
「いらっしゃい。何のご用だね」
「田舎の母に手紙を……宛名だけでも、機械で打っていただけたらと思って」
「宛名だけかい。まあ、いいさ。座んなさい」
老人は機械の前に座り、レバーを動かした。
かしゃん、かしゃん。
「母上様」。
打ち出された紙を、受け取る手が震えた。
「様」の字だけが、太い。払いの先が、筆で書いたように丸く膨らんでいる。字の大きさがわずかに小さく、行の中で少し沈んでいる。
百合絵様の恐喝状と、同じ顔だった。
「……あの、この『様』の字だけ、少し形が違うんですね」
老人は鼻眼鏡をずり上げて、紙を覗き込んだ。
「おや、目ざといね。そいつは去年の暮れに折れちまってね。機械屋に頼んだら、揃いの活字は取り寄せになるって言われてさ。仕方ないから、知り合いの印刷屋から似た大きさのを一本もらって、差し替えたんだよ。様なんて字は、毎日何十と打つからね。一番先にくたびれる」
私は息を整えた。
帯の内側から、四つに折った紙を出す。百合絵様から預かった恐喝状だ。
「実は、姉がこういう手紙をもらって、困っているんです。このお店で打ったものではないでしょうか」
老人は紙を受け取り、しばらく黙って眺めていた。
それから、苦いものを噛んだような顔をした。
「……ああ。こいつは、うちの機械だ。間違いない」
「打った人を、覚えていらっしゃいますか」
「忘れやしないよ。十日ばかり前だ。華族の若様みたいな、派手な縞の背広の男が来てね。何を打つのか見せたくないから、機械だけ貸せって言うんだ。自分で打たせろってさ。二円も置いていったよ」
「二円も」
「機械を貸すだけで、二円だ。妙だと思ったんだがね」
老人は鼻をこすった。
「それだけじゃない。若様は手紙の束を出して、この字を真似て一通書いてくれ、とも言ったんだ。うちは代書屋だが、人の字を写す商売はしねえ、って断った。そしたら、そこの机を貸せと言って、自分で鉛筆で何やら写してたよ。半日もかかってね」
老人の目が、窓際の小さな机を示した。
鉛筆の溝。墨の下の銀色の筋。
local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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「その方、何か目印になるようなものを、身につけていませんでしたか」
「目印ねえ」
老人は首をひねり、それから、ああ、と膝を打った。
「指輪だ。右手の薬指に、金の太い指輪をしてた。平たいところに紋が彫ってあるやつさ。機械のレバーに、かちかち当たってうるさかったんでね、よく覚えてる」
私は帯の上から、自分の胸を押さえた。
「その若様は、このあたりによくいらっしゃるのですか」
「六区の射的屋の二階に、賭場があってね。あそこに入り浸ってる連中の一人だよ。華族の娘から金をせしめてやる、なんて、仲間に吹いてるって噂だ」
老人は恐喝状を私に返し、低い声で付け足した。
「娘さん。姉さんに言っておやり。あの手の男は、一度払ったら骨までしゃぶるよ」
私は畳に手をついた。
「もう一度、その方の顔を見たら、わかりますか」
「わかるとも。こちとら四十年、客の顔と字を見てきたんだ」
「では、もしものときは、そう言っていただけますか。人の前で」
老人は、鼻眼鏡の奥の目をしばたたいた。
それから、私の右手に目を留めた。中指の、インクの染み。
「……娘さん、あんた、ただの娘さんじゃないね。その指は、活字を拾った指だ」
私は手を引っ込めかけて、やめた。
「父が、神田で活版屋をしておりました」
「そうかい」
老人はそれ以上は訊かず、煙管に葉を詰めた。
「人の字を盗む奴は、好かねえ。いいよ。そのときは呼んどくれ」
*
市電を降りて鳥居坂を上りきったとき、空はもう藍色だった。
暗くなる前に帰れ。侯爵様の声を思い出して、足が速くなる。鼻緒が擦れたところが、歩くたびに焼けるように痛んだ。
門の前に、背の高い影が立っていた。
白いシャツの袖をまくったまま。外では決して手袋を外さない人が、素手だった。
侯爵様だった。
厨房から、そのまま出てきたのだろうか。門灯の明かりの下で、その顔はいつものように動かない。
「どこへ行っていた」
怒鳴る声ではなかった。低くて、静かだった。
「……本所へ。父の薬を」
侯爵様は答えなかった。
その目が、ゆっくりと下へ落ちていく。
木綿の縞の着物の裾。泥のはねた足袋。それから、底のすり減った草履。鼻緒の下で、足袋の指先が赤く滲んでいた。
侯爵様は、長いあいだ私の足元を見ていた。
本所から麻布まで、こんなふうになるほど歩く道理はない。この人には、それがわかっている。
わかっていて、何も訊かない。
「入れ。夕餉ができている」
それだけ言って、侯爵様は先に門をくぐった。
その夜の厨房で、侯爵様は一言も口をきかなかった。私も、何も言えなかった。
焦げていない卵焼きが、いつもより一切れ多かった。
*
翌朝、部屋の扉を開けると、廊下に何かが置いてあった。
草履が一足。
畳表の、柔らかな草履だった。鼻緒は藤色の縮緬で、指の当たるところに薄く綿が入れてある。
誰が置いたのか、書き付けはなかった。
けれど、鼻緒の色を選んだ人の顔は、一人しか思い浮かばなかった。
コメント
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いやもう、松葉堂の老店主と侯爵様に感情が持ってかれたわ…! 「様」の活字の違いから一気に真相に迫るところ、さすが活版屋の娘って感じで痺れた。ヒロインの行動力と推理、めちゃくちゃかっこよかった🔥 そして何より、草履を黙って差し出す侯爵様…「焦げてない卵焼きが一切れ多かった」と合わせて、言葉にしない優しさが心臓に刺さるんだよ😭💕