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あいつは隣の席だ。隣にいるだけで、世界は少し温度を上げる。俺はいつだって眉間にシワを寄せて舌打ちする、周りから怖がられている男子だ。生真面目で短気だし、悪いところしかない自覚がある。友人は一人、席が近いだけのやつだ。馬鹿みたいにヘラヘラしている。こいつに俺の本音をぶつけても、流されるだけだ。だからな、誰にも見せない顔をここに残しておく。お前だけに見せる顔を。
あいつは、太陽だ。教室の隅で笑っているだけで人が寄ってくる。明るくて素直で、誰にでも分け隔てなく微笑む。そんな奴が、どうして俺の隣の席にいるのか。クラス分けの運命ってのは本当に腐ってる。おかげで、俺は毎朝が地獄のように楽しい。
最初はただ眺めていた。花壇で虫の話をしていたことも、放課後に図書室で一冊の図鑑を夢中でめくっていたことも、全部。ただの観察だ。隣にいるだけで、笑顔を一つ拾える。俺はそれだけで満たされるはずだった。
だけど満たされるってのは、一方的な言葉だ。満たすのは、与える側の役割だろ。俺は気づいた。お前の笑顔は、たくさんの誰かに分け与えられている。俺はその輪の端っこにいるだけだ。そんなの、耐えられない。独り占めしたくなる。太陽は俺だけのものになっていいはずだ。
花壇でしゃがみ込み、虫を観察している彼女の目の輝きを。嫌うどころか、愛おしそうに羽を眺める姿を。図鑑を食い入るように読む横顔を。笑って「可愛い」と言う声を。
俺は変わった。いや、変わっていくことを選んだ。
家に帰って虫の図鑑を漁る。彼女が口にした名前を必死に覚える。アゲハチョウの羽の構造、ダンゴムシの丸まり方、ミミズの生態。最初はただの知識だった。けれど次第にそれが面白くなってきた。いや、正確には――彼女が面白そうに語る姿をもう一度見たくて、必死に学んでいった。
ある日、彼女が花壇で
「見て、アリの巣!」
と叫んだ。俺は即座に返す。
「働きアリは、実は寿命が短いんだぞ」
彼女が目を丸くして笑った。その笑顔に、俺は確信した。これでいい。俺はお前に合わせて変わっていけばいい。俺の色は要らない。全部お前の色で染まればいい。
周りは言う。
「お前、キャラ変わった?」
どうでもいい。俺は知っている。お前が昨日読んでいた本も、放課後に寄っていた図書室の棚も。お前がノートの端に描いていた小さな昆虫の落書きさえも。俺は全部知っている。知るたびに、俺はお前の世界に近づいていく。
友達のやつが言った。
「お前、ヤバくね?」
って。舌打ちを混ぜて笑うが、内心でその言葉を嬉しく思った。ヤバいくらいで丁度いい。理性なんて薄いガラスだ。割れる音で、世界ははっきりする。
俺は助ける。困っていたら真っ先に駆け寄る。体育の練習で膝を擦りむいたら、ポケットからティッシュを出して渡す。風が強い日の帰り道、上着を羽織らせる。誰も気づかない細やかな優しさを、俺は積み重ねる。善人であり続けることは、最強の武器だ。お前の中の「安心」を独り占めするための錠前を一つずつ掛けていく。
ある日、クラスで小さな騒ぎがあった。誰かが意地悪な噂を流して、教室はざわついた。周囲は様子見を決め込むが、あいつは違った。真っ先に声を上げて相手に詰め寄る。あの姿を見て、胸の中の黒い笑みが浮かんだ。そうだ、俺はこの太陽のために闘う。誰が何と言おうと、お前を守る男になりたい。守るって名の所有だ。
それでも諸行は外面だ。内面はもっとずるい。お前が誰かと楽しそうにしているところを見ると、腹の底が焼けてくる。笑ってる顔が眉を寄せる瞬間を、どうにか作りたい。ふとした仕草で傷つけたくなるわけじゃない。むしろ、お前の弱さを俺だけに見せてほしい。太陽の陰が、ここにだけ落ちるように。
ある帰り道、お前と一緒になった。俺は距離を置いて歩いていたが、ふいにお前が立ち止まった。小さな声で「ねえ、これ見て」と昆虫図鑑を差し出す。そこに珍しい蛾の写真が載っている。瞳を輝かせて、話すお前は本当に眩しい。俺は無理に近づき、図鑑を覗き込みながら顎を引く。
「すげぇな、そんなのよく見つけるな」
「うん、好きだから」
簡潔な返事。俺は胸の奥が締め付けられるのを感じた。好きだって言われたら、どうする? いや、俺が言わせるんだ。俺のやり方で。だが、そのためにはもっと確実に、もっと安全に、籠を作らなきゃいけない。
放課後、俺は友達とわざとらしく話して見せる。お前の興味がどこにあるか、その日の予定はどうか。距離のない会話は、周到に演出された網になっていく。お前は気づかない。誰も気づかない。太陽は雲を知らないのだ。
でもね、時々小さな不安が浮かぶ。俺は本当に優しい人間じゃない。壊れやすい心を、優しさで包みこむ。だがいつか包み方を間違えたら、お前は逃げるかもしれない。逃げるなら追う。それがどれほど狂ったものでも、俺は追う。独り占めするという言葉の裏側には、そういう盲目の決意がある。
今日もまた、俺は廊下の隅でお前を見ている。机の端の鉛筆、髪の一房が風に揺れる様子、笑い堪えた顔のシワ。全部が俺のものになりつつあるという錯覚に、唇が綻ぶ。誰にも渡さない。渡せない。お前が誰かに笑いかけるたび、俺の中の黒い感情が深くなる。
そして気づいた。俺はもう、俺じゃない。
俺はお前の趣味で構成された人間だ。お前の好きな虫の名前を語り、お前が好む本を読み、お前が立ち止まった景色に同じように立ち止まる。
周囲から見れば、ただの偶然だろう。けれど、お前は気づくだろう。
「あれ?同じだね」って。そう言って、笑うだろう。
お前がいつ花壇にいるか、どの虫を好んで観察するか、放課後の寄り道、休日の行き先、机の上の小さな癖。俺は一つ残らず記憶している。
俺が変わったのは、お前のため。
俺が染まったのは、お前の隣に立つため。
そして――俺は笑う。黒い笑みで。
「これで、もう逃げられないな」
太陽を独り占めするために、自分ごと全部、彼女に染め上げた。