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「ただいま〜」
元気で、なおかつ能天気な声で、敦は自宅の扉を開ける。今日も疲れたよ〜、なんて言葉を吐きながら、乱雑に靴を脱いでいく。 掛け違えたボタンをぽろぽろ外しながら、彼は誰もいないリビングの一室で、バサ、と上着を脱いだ。
寒かった。家の中とはいえ、外との温度差は大して変わらない。それでも、こんなに寒いだなんて感じたことなかったのに。
「……」
先ほどの気さくさが、まるで夢だったかのように消え、敦は重力に押し潰されたかのように、膝から崩れ落ちた。フローリングも、やはり冷たかった。
「……ただいまあ」
やはり、誰も答えてはくれない。
昔なら、五年前なら、優しくて低くて、でもどこか落ち着いている甘い声で、おかえりと言ってくれる人がいたのに。抱きしめてくれる人がいたのに。今は、どこにもいない。
敦は壁にもたれかかり、ぼうっとスマホを手に取った。するとタイミングよく、ぽこんとラインが届いた。送り主を見ると『なかちゅー』と書いてあった。
中原中也。敦の幼馴染である芥川龍之介と同じ劇団に所属する、三つ年下の後輩。とても器量が良く、人当たりもいい彼は、太宰とは違う意味で、敦に懐いていた。
ここで少し、芥川らの紹介も挟もう。
まず、芥川龍之介とは前述した通り、敦の昔からの幼馴染だ。お互いに演技が好きで、昔はよく演劇ごっこをしていた。(子役もいくらか仕事をもらえる程度には。)。やんちゃな芥川はよく理不尽なアドリブを挟んで、敦を困らせていたことを、ぼんやりと思い出す。だが、敦の都合上、二人は違う劇団に所属した。高校までは一緒だったけれど。
次は太宰治。敦の直属の先輩でもあり、後輩だ。敦が入ってくる三年前に彼は所属していたが、演技歴は敦が上だったこと、彼が敦の昔からのファンであったことから、すぐに打ち解けた。太宰はその劇団の中で、一番人気で一番上手かった。実際に敦ですら、その才能に焦りを覚えるくらいに。それでも、彼は敦を敬い続け、今の彼らの関係がある。
というこぼれ話はよしとして、敦は中原からのラインを開き、その内容を読んだ。
『お疲れ様です、中島さん。実はご指導をお願いしたいところが幾つがありまして。お願いしてもよろしいですか?』
という内容だった。相変わらずラインだけは丁寧だなと失笑が込み上げてくる。
いいよ、と返信すると、雷の速度でありがとうと書かれたスタンプが飛んできた。それにもまた笑いが込み上げる。
部屋から彼の香りがする。懐かしい彼の香り。彼はよく机に向かってぶつぶつと呟いていた。そして液晶の前で笑ってみたり怒ってみたり泣いてみたりと忙しそうで、敦はそんな彼を見るのが好きだった。家事も完璧で、汗だくになって帰った日には、彼は自家製のアイスを食べさせてくれた。そんな人だった。
おかえり。
そう呟かれた気がした。
『よう、ジマ。ハラから連絡が来たと思うけどよ、その日、早めに会えねえか? 行くんだろ? 見舞い。行ってやんねえと悲しむだろうし。』