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「理由を聞かせてください」
いつも通り表情一つ変えずに田代秘書課長が私を見る。
こんな風に見つめられると、やはり怯んでしまう。
それでも、私だってここで引くわけにはいかない。
人生がかかっているんだから。
今朝早く奏多を送り出してから、私はいつもの時間に出勤した。
今日シンガポールに着いていくつか会議をした後、明日には契約となるはずのプロジェクト。
私にもまだサポート業務が残っていて、それを現地のスタッフへ引き継いだ。
これで私がいなくても無事契約まで持っていけるはず。
引継ぎが終わるとデスクの片づけをして、辞表を持って課長のもとを訪ねた。
「理由もなく辞めたいでは話になりません」
今にも話を切り上げて席を立とうとする課長。
「彼のもとを去ろうと思うんです」
「その理由は?」
「ですから・・・」
理由なんて課長だってわかっているくせに。
「奏多には?」
「いいえ」
言えば止められるってわかっているから、伝えていない。
「はあぁー」
深いため息とともに、この時初めて課長が表情を曇らせた。
***
「こんな話をされて、僕が奏多に黙っていると思いますか?」
「それは」
課長と奏多は高校時代からの親友。本当だったら黙っていてくれるはずはない。
そんなことは私にもわかっている。
でも、
「奏多が今大変な時なのは課長が一番おわかりですよね。彼に話せばきっと仕事を放り出して帰ってきます」
いつもなら課長の前ではたじろいでしまう私も、今日はまっすぐに目を合わせて詰め寄った。
誰よりも奏多の性格をわかっているであろう田代課長。
奏多の親友であり仕事の相棒でもある課長は今回のプロジェクトがどれだけ重要なものかをよく理解している。だから、今このタイミングで奏多の気持ちを乱すようなことを告げ口するはずがない。
私の中でそんな結論に達した。
「すごい自信ですね」
ちょっと馬鹿にしたように課長が笑った。
「自信なんて・・・ありません」
初めから、私には何もない。
「この先どうするつもりなのか、聞いてもいいですか?」
「この先?」
それは、どこへ逃げるのかを聞かれているんだろうか?
それを聞いて奏多に告げ口するつもりだろうか?
「奏多の側にいればお金の不自由もなくいい生活ができるのに、それを放り出してあなたは何をしようって言うんですか?」
「・・・」
無意識のうちに、私は課長を睨んでいた。
***
「私の好きになった人は財閥の御曹司で、びっくりするくらいのお金持ちなのかもしれません。でも、それは平石奏多のほんの一部です。わがままだって言うし、怒るし、コンビニの100円で買えるプリンが大好きで、家ではヨレヨレのTシャツだって着るんです。それでも自分に課せられた重荷は投げ出さずに担おうとする。そんなまっすぐな彼を私は知っています」
「そうですね、あいつはそんな男です」
そうか、課長も素の奏多を知っているんだ。
「奏多をこれ以上苦しめたくないんです。だから、彼の前を去ります」
私が側にいても、何の力にもなれない。
それどころか奏多の邪魔になるだけ。
「あいつの気持ちは無視ですか?」
「・・・すみません」
独りよがりで自分勝手な行動だと思う。
きっと、奏多は怒り狂うだろう。
それでも彼の将来を思えば、去るしかない。
「怒りますよ」
「わかっています」
「どこまでも追いかけていきますよ」
「それは・・・」
正直困るな。
「仕事が手につかなくなって、大きなミスをするかもしれない」
「そこは課長がフォローしてください」
奏多に遠慮なくものを言えるのは課長しかいないんだから。
「あなたは本当に、奏多を忘れられますか?」
「・・・」
答えられなかった。
***
最後まで、課長は私を止めるようなことは言わなかった。
ただ、それでいいのか?後悔しないのか?と問い続けた。
「落ち着いたら連絡をとるつもりですので、今は黙っていてください」
お願いしますと、私は頭を下げた。
課長はイエスともノートも言わない。
ただ私が出て行くのを黙って見ていた。
なんだかんだ言って、課長は私の存在を快く思ってはいない。
だって、奏多にとって足枷にしかならないんだから。
だからきっと、奏多には言わないでくれると思う。
それに、実は私は知っている。
シンガポールから帰ってきた奏多に、お父様との会食の予定が組まれていることを。
表向きはプロジェクトの報告を兼ねたものとなっているが、それだったらわざわざ時間をとってホテルのレストランを予約する必要はない。
きっとこれは顔合わせ。要はお見合いの席だろうと思う。
どこかの令嬢と奏多とのお見合いの話があるのに、私のような者が奏多のマンションにいてはいけない。
そう思ったのも出ていくきっかけになった。
***
「お世話になりました」
もう一度部屋の中を見回して、誰に言うともなく口にした。
短い時間だったけれど、ここで奏多と働けて幸せだった。
奏多のまっすぐで手を抜かない仕事ぶりに感動したし、どれだけ窮屈な環境なのかってことも知ってしまった。
奏多にはその重荷を軽くしてくれるような相手がふさわしい。
それは私じゃない。
奏多のデスクの上に手紙を残そうかと、何度かペンをとった。
せめて一言『ありがとう』と『ごめんなさい』は言いたいと思うのに、うまく言葉が出てこない。
シンガポールでホテルを出るときはあんなにすんなり書けたのに。
やはり、あの時と今では思い入れが違うのかもしれない。
まずいな早くしないと、自分の気持ちが止まらなくなってしまう。
色々と引継ぎの手配をしていたら午後になっていた。
その間にも、奏多からのメールが何度か届いた。
もちろんそれは他愛もないいつものメールで、「ちゃんとご飯食べたか?」「今日のランチはチキンライスだ。いいだろう」とかわいい内容。
それに対して私は当たり障りなく返事をした。
午後一時を回りみんなが午後の勤務に入ってから、私は会社を出た。
もう二度と来ることはないだろう平石物産のビルを見上げ、夢のようだった数か月を思った。
***
その日の内に荷物をまとめ、住んでいたアパートを解約し、家財のほとんどは処分した。
わずかに残った荷物を大き目のスーツケースに詰め、私はビジネスホテルへ移った。
一週間の滞在予約をし、その間にすべてを処理するつもりでいる。
仕事も住む所もなくなった私だけれど、不思議なことに不安はない。
前回蓮斗から逃げだしたときはこの先のことを考えて途方に暮れたけれど、今は清々しささえある。
きっと、自分で選んで選択した結果だからかもしれない。
生活の基盤をすべて失くしてしまった今の私は、実家を頼るしかないと思う。
きっと叱られるだろうし、こうなったことへの敗北感もある。
でも、奏多のためにはこれが最善だと思えた。
「お客さん、ここでいいですか?」
「はい」
夕方タクシーに乗って訪れた都内のレストラン。
ここは蓮斗のお気に入りの店で、付き合っていたころに何度か訪れた場所。
私は久しぶりに蓮斗に連絡をし、会う約束をした。
「一度会って話をしたい」と言った私に、蓮斗は素直に応じてくれた。
レストランは私が指定し、時間は蓮斗の勤務終わりの頃にした。
「仕事で少し遅れるかもしれない」と言った蓮斗に驚いたけれど、「来てくれるまで待っています」と答えた。
***
「ごめん、おまたせ」
「うん、大丈夫」
6時に約束していたのに、蓮斗がやってきたのは7時を回った後だった。
「仕事、忙しそうね」
「ああ」
ちょっとだけ表情を曇らせた蓮斗。
あれ、何かあったのかな?
この時、今まで蓮斗と違う何かを感じた。
「オーダー、お任せでいい?」
「うん」
聞かなくたっていつもそうだったじゃない。
コース料理とアラカルトを織り交ぜながら、蓮斗が注文をしてくれる。
蓮斗はワインを飲み、私はお水。
サラダと前菜が出てきたところで、私の手が止まった。
「どうした?嫌いだった?」
お皿の中が減っていかない私に、蓮斗が声をかける。
「違うの、最近食欲がなくて」
申し訳ないなと思いながら、トマトとキュウリをつまむのが精一杯。
これ以上無理をすれば吐きそうだし。
「そうか、無理せずに食べれるだけ食べればいいよ」
「うん」
それから、出てきた料理のほとんどを蓮斗が食べてくれた。
潔癖症の蓮斗は人が箸をつけた物は食べられないから、ほぼ丸ごと二人前を平らげた。
「デザートは?」
「いただきます」
甘いものが苦手な蓮斗に、2人分のデザートは食べさせられない。
***
「こうして芽衣と会うのは久しぶりだな」
食後のコーヒーが運ばれてきたところで、蓮斗が口にした。
「そうね」
「あいつと付き合っているのか?」
あいつって、奏多だよね。
「すごい男を捕まえたもんだな」
「・・・」
「さすがに平石財閥じゃあ、俺にもかなわない」
「・・・蓮斗」
私は今、すごく侮辱されているんだろうと思う。
『お前は金持ちの男に乗り移ったんだ』と言われている。
そんなことないよって叫びたいけれど、きっと周囲にはそう見えるんだろう。
そう思えて言い返せなかった。
「芽衣は、あいつが好きなのか?」
「え?」
「あいつといて、芽衣は幸せなのか?」
「それは・・・」
「シンデレラだって喜んでいられるのも今だけだぞ。時間がたてば、色んな歪みが出てくる。住む世界が違えば違うほど生き難さは大きくなっていく。お前にそれが耐えれるか?」
「蓮斗・・・」
この時、私は驚いていた。
あの子供っぽかった蓮斗が大人みたいなことを言っている。そのことが衝撃だった。
***
「蓮斗、何かあったの?」
そう聞かずにはいられなかった。
きっと、蓮斗の周囲で何かが起きた。
それは私の確信。
「お前は何も知らないのか?」
「何を?」
首を傾げる私に、蓮斗は困ったなって顔をする。
「あいつが俺を殴った時の写真をネットに上げたのを知っているよな」
「うん」
「あの後平石家が手を回して記事を削除させたのも?」
「うん、聞いた」
おかげで奏多はお見合いをしなくちゃいけなくなった。
「あの時、平石財閥から親父の会社にも脅しがあった」
「え、蓮斗のお父さんの会社?」
「ああ、平石財閥は大きいから日本のほとんどの企業はどこかでつながっている。平石家を敵に回すってことは会社の存続が危なくなるんだ」
「そんなあ」
「考えてみれば俺が自由気ままに生きられるのも親父の後ろ盾があればこそだし、それが危ないとなれば恋愛どころじゃない。俺も親父に怒鳴られて初めて現実を知ったって訳だ」
「・・・ごめん」
「バカ、なんでお前が謝るんだ」
「だって・・・」
原因は私なのに。
「でも、正直参ったよ。書き込みをすべて消して平石財閥にはわかってもらったけれど、親父の怒りはすごくてさ、今の会社で一番厳しい部署へ飛ばされた。上司にも鬼みたいな部長をつけられて、今迄みたいな特別待遇は一切なし。ほんとに、ヘトヘトだ」
本当に参ったよって言いながら、蓮斗はなぜか楽しそうに見える。
***
「怒ってないのね?」
「ああ、むしろ感謝している。今回のことがなかったら、俺はいつまでもぼんくらな二代目で親父の会社をつぶしていたと思う。今は本気で仕事を覚えて、平石に負けない力のある企業にするんだって燃えているぞ」
蓮斗は以前よりも精悍な顔立ちに見えた。
「芽衣、お前はいい女だった。優しすぎて何でも言うことを聞いてくれるから甘えすぎていたけれど、俺は今でもお前が好きだ。もう一度やり直せないか?」
まっすぐに私を見る蓮斗。
「・・・ごめん」
四年も一緒にいたせいか多少の感情移入はあるけれど、元の関係に戻るつもりはない。
私は決心したんだから。
「あいつと一緒になるのか?」
「それは、わからない」
実家に帰るなんて言えば、蓮斗に止められそうで言えなかった。
久しぶりに優しい顔の蓮斗とゆっくり話をし、
「じゃあ、さようなら」
と握手をしてレストランの前で別れた。
私の初めての恋はこうして終わった。
穏やかに笑って別れられたのがせめてもの救い。
これも一つの思い出にしようと、私は前を見て歩き出した。