テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#復讐
草原草原(くさはらそうげん)

1,510
木風
791
#サレ妻
都築七美
1,141
「調停は、月に一回くらいです。初回は、二月になるでしょう」
水曜の夜七時。内藤は、前と同じ机で、前と同じ早口だった。結衣は井口に頼んで、佳奈の家で八時まで預かってもらっている。
「裁判所から、日時の書いた紙が来ます。そこに行って、調停委員という人に、別々の部屋で話を聞かれる。ご主人と顔を合わせるのは、最初と最後だけ。顔を合わせたくなければ、それも言えます」
「はい」
「向こうは『浪費』と『私物化』と言っている。四百万円。あなたが、九年間、家計の口座を自分のものにして、使い道の分からない金が四百万円ある、と」
「全部、書いてあります」
「知ってます。だから、こっちは家計簿で全部答えられる。月ごとの食費、光熱費、結衣ちゃんの費用、仕送り、立替。相手が『四百万円どこに行った』と言ったら、こっちは『ここにあります』と、一円ずつ出せばいい。それができる人は、ほとんどいません」
内藤は、紙に線を一本引いた。
「それと、婚姻費用を求めます」
「婚姻費用」
「別居中の生活費のことです。ご主人には収入がある。あなたと結衣ちゃんが別に暮らしていても、生活費を分担する義務がある、という考え方です。離婚の調停とは別に、こちらから申し立てて、一緒に進める。額は、お互いの収入で決まる。ご主人の年収は、源泉徴収票で分かっている。七百二十一万円」
「はい」
「十二月、ご主人からいくらもらいましたか」
「十一月の二十五日に、八万円。十二月分として。それから、まだ何も」
「それも書いておいて。日付と、金額と、渡し方。封筒で、現金で、八万円。もらえなかった月は、もらえなかったと書く。ゼロも数字です」
真尋は、家計簿の九冊目を開いて、『12月 生活費 80,000(恭平)11/25』の行を見せた。内藤はうなずいた。
「もう一つ。ご主人が、結衣ちゃんのことで何か言ってきたら、全部教えてください。親権を争うなら、向こうは『母親に問題がある』と言い始める。よくある手です」
「浪費、以外に、ですか」
「浪費、以外に」
内藤は、紙を折って、真尋に渡した。
「怒らないで、集めて。次は、裁判所の紙が来たら」
相談は三十分で終わった。真尋は領収書を頼んだ。
木曜の朝、事務所。
神谷が所長室から出てきて、真尋の机の上に、クリアファイルの束を置いた。二十冊。顧問先の名前が、一つずつ背に書いてある。
「年末調整。二十件、篠原さんに回す。坪井は十二件。来週の金曜までに」
「はい」
「残業はつけておく。五時に上がる日は、翌朝に回しなさい」
神谷は所長室に戻った。坪井が、自分の十二冊の山を見て、小さく息をついた。
「篠原さんのほうが多い」
「慣れてますから。東和機工でも、年末はこれでした」
真尋は、一冊目を開いた。保険料控除の証明書、扶養の申告書、住宅ローンの残高の証明書。数字を、順に、所定の欄に写していく。顧問先の社員の名前は知らない。知らなくても、数字は合う。
昼、真尋が給湯室から戻ると、机の端に、白い紙袋が置いてあった。
肉まんが二つ、入っていた。温かい。
大久保が、自分の席から言った。
「所長が買ってきたやつよ。コンビニの。真尋さんのだけじゃなくて、全員分」
「所長が」
「業務だって言うわよ、聞いたら。だから聞かないの」
坪井が、自分の机の肉まんをもう食べていた。真尋は、紙袋を開けて、一つ食べた。
午後、真尋は年末調整の合間に、別の紙を一枚、書いた。
『調停に出すもの』
家計簿、二〇一七年から二〇二五年(七冊目は写しなし)。通帳の写し、百六十二ページ。源泉徴収票の写し、二〇二四年。領収書の写し、不動産、家具、内金、産婦人科。はがき、住所変更。郵便受けの写真。ランプの領収書と裏の記録。恭平からの現金、日付と金額。
書き終えて、ロッカーのファイルの、いちばん前に挟んだ。
五時に上がって、学童に結衣を迎えに行った。
結衣は、ランドセルを背負って出てきて、真尋の顔を見るなり言った。
「お母さん、今日、九九の七の段、できた」
「お風呂の表の?」
「うん。七、十四、二十一、二十八、三十五、四十二、四十九、五十六、六十三」
「全部?」
「全部」
結衣は、少し得意そうだった。真尋は、結衣の頭に手を置いた。帰り道、結衣はもう一度、七の段を言った。
家に着いて、真尋は結衣のランドセルから連絡帳を出した。毎日、担任が一言書いて、親が印を押す。
今日のページに、担任の字があった。いつもより、長い。
『本日、お父様よりお電話がありました。「母親が精神的に不安定なので、学校での結衣の様子を注意して見てほしい」とのことでした。ご家庭でのご事情があれば、お知らせください。結衣さんは、学校では元気に過ごしています。担任』
真尋は、その字を、二度読んだ。
精神的に、不安定。
父親が、学校に、電話をした。真尋の知らないところで、真尋のことを、そう言った。
内藤が水曜に言った言葉が、頭に戻ってきた。親権を争うなら、向こうは「母親に問題がある」と言い始める。よくある手です。
連絡帳を持った手は、震えていなかった。真尋は、それを確かめた。震えていない。
「お母さん」
結衣が、横に来た。
「今日、九九の七の段、できた」
「うん。聞いた。すごいね」
真尋は、連絡帳を閉じて、ランドセルの上に置いた。
「結衣。お母さんは、元気だよ」
結衣は、真尋の顔を見て、それから、手を洗いに行きかけて、振り返った。
「うん。知ってる」
コメント
1件
お疲れ様です、寺島あおいです🤍 第14話、拝読しました。調停準備の淡々とした手続きと、最後の連絡帳の一文で一気に空気が変わる構成がとても巧みで……「精神的に不安定」という恭平さんの言葉を、真尋さんが「震えていない」と確かめるところ、胸が痛みました。でも結衣ちゃんが「知ってる」と返す場面に、静かな強さを感じました。続きが気になります。