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黛の動きは素早かった。
澪さんと乾杯した十二時間後。
私のスマホに見覚えのない番号が表示された。
「もしもし」
『那須川馨さんでしょうか?』
上品な、柔らかい女性の声。
「どちら様でしょう」
『槇田雄大の母です』
——————!!
突然のラスボス、もとい、お義母さまからの電話に、全身の筋肉が強張る。足が攣りそうだ。
「初めまして」
自分の声が上ずっているのがわかった。
『昼食をご一緒しませんか?』
「え……? あ、はい」
『では、十二時に迎えの車をやりますから』
「え? あの——」
挨拶なしに、通話は絶たれた。
昼食?
迎えの車?
それより、どうして私の番号——。
考え着く先は一つ。
黛が雄大さんのお母さんに接触した——。
私は澪さんの番号を呼び出したが、すぐに消した。
今、知らせても意味はない。
次に雄大さんの番号を呼び出し、発信した。
報告はすべきだ。
けれど、発信音は鳴らず、留守番電話サービスに繋がった。
私から着信があったことは履歴でわかる。無言で切れば、何かあったと心配させるだろう。
「馨です。ご飯の用意をして待ってるから……、早く帰って来て……ね」
声が震えていると気づかれたくなくて、短いメッセージを残して電話を切った。
ランチの約束をしていた真由には、事情を話した。
澪さんに話した方がいいと言う真由に口止めをして、私は会社の前に停まっていた黒塗りの車に乗り込んだ。
五分ほど走って、着いたのはビジネスホテル。
最上階の角部屋に案内された。
「お呼び立てしてごめんなさいね」と、白いパンツスーツの女性が言った。
電話と同じ声。
澪さんに似ていた。
五十九歳と知っていたけれど、五十歳でも通用するだろうと思った。
「初めまして。那須川馨です」
私は深々と頭を下げた。
「雄大の母、槇田幸恵です。どうぞ、お掛けになって」
促されて、窓際のソファに座った。
テーブルにはコーヒーとサンドイッチが並んでいる。
「あまり時間もないから、軽食にしたの。召し上がって?」
「ありがとうございます」
とても食べる気にはなれなかったけれど、手を付けないのも失礼かと思い、とりあえずコーヒーに口をつけた。
「一緒に暮らしているというのは本当?」
「……はい」
「結婚を考えているとか」
「はい」
「考え直してください」
「え?」
「主人も私も、雄大とあなたの結婚は認めません」
覚悟していたとはいえ、ストレートの剛速球。言葉に詰まる。
「理由を……お伺いしてもよろしいですか?」
「本音を言えば、結婚に否定的だった雄大が結婚したいと思ってくれただけで嬉しいのよ?」
チェンジアップに不意を突かれた。
肩の力を抜いた優しい表情と、優しい口調。
「見たところ、真面目なお嬢さんのようだし、あなたに不満があるわけではないの。ただ……」
雄大さんのお母さんは、足元の分厚いバッグから封筒を取り出した。
見るまでもなく、予想できた。
「こんなものが出回ってしまっては、私たちはあなたたちの結婚を許すことが出来ないの」
広げられた紙は、昨夜澪さんが破り捨てたものと同じ。
雄大さんと春日野さんが抱き合っている写真。
やっぱり————!
黛は写真を使って、私たちを追い詰めるつもりだ。
「驚かないのね」
「……」
「同封の手紙には、この写真が社内でバラまかれたとあったけれど、事実?」
「……はい」
雄大さんのお母さんは、奥歯を噛んだ。
「こんな写真を見せられて、あなたは雄大を許したの?」
「違うんです! これは……躓いた彼女を支えただけなんです。決してやましいことが——」
「けれど、あなたという女性がいながら、他の女性と二人で食事をするのはどうなのかしら」
「それは——」
「しかも、この女性と雄大は、過去にお付き合いがあったらしいわね」
二人は付き合っていることを隠していたのに、どうしてわかってしまったのだろう。広川さんも知っていたのだから、黛が調べたのだとしても、簡単なことではなかったはず。
まさか……。
「この女性をご存知?」
「はい」
「ならば、この写真が彼女のご両親の目に触れたらどうなるかは?」
「え————?」
この写真を春日野さんのご両親が見たら……。
『私の親は雄大のご両親と交流があるの』
いつかの、春日野さんの言葉を思い出した。
『親が知れば結婚話が進むだろう』
「お相手は雄大との結婚を望まれているわ」
『お相手』とは春日野さんのことで、望みを聞いているということは両家で話し合われたということ。
私が何を言おうと、何もかわらない——。
「お話は……わかりました」
「……ごめんなさいね」
雄大さんのお母さんが、二度と会いたくないと、こんな義母は冗談じゃないと思えるような人だったなら、胸も痛まなかったと思う。
「いえ。ただ、私から雄大さんに一方的に別れを告げることは出来ません。ご存知かわかりませんが、雄大さんからは婚約指輪も結納金もいただいています。先日は私の親族にも挨拶をしてくださいました」
雄大さんのお母さんは、目を見開いた。
『同封の手紙』に何と書いてあったかは知らないけれど、そのことは書かれていなかったらしい。
婚約指輪についてはともかく、結納金のことは、その場にいた澪さんしか知らない。手紙が届いたのがいつかはわからないけれど、春日野さんの『望み』を確認する時間があったのなら、黛が手紙を出したのは私たちが立波家に挨拶に行くより前だろう。
雄大さんのお母さんはきっと、結婚を前提に同棲している、と思っていたのだろう。
私を懐柔して同棲を解消させれば壊れる関係だと思ったから、雄大さんではなく私に接触した。
雄大さんのお母さんの視線が、私の左手の指輪に向かう。
雄大さんがそこまで本気なのだと、理解したよう。
「婚約解消に関しては、それ相応のお詫びはさせていただきます」
「いえ。解消となれば指輪も結納金もお返しします。ですが、それは雄大さんが望まれれば、です」
こんな風に我を通してしまえば、仮に私と雄大さんが結婚できたとしても、嫁姑の関係は最悪だと思う。
私は指輪をギュッと握りしめた。
けど、ここで諦めてしまったら、嫁姑の関係にすらなれない。
「雄大さんは私との結婚を望んでくださいました。私はその気持ちに応えたいと思っています。ですから、雄大さんが婚約の解消を望まれるのでしたら、私は黙って身を引きます」
嘘じゃない。
『共犯者になってやるよ』
雄大さんの言葉から始まった関係だから、雄大さんの言葉で終わらせるべきだ。
『契約終了だ』
考えると、息が詰まる。
「別れさせたいなら、雄大を説得しろということね」
「……はい!」
「わかりました。今日はあなたの気持ちを確認できてよかったわ。わざわざお越しいただいて、ごめんなさいね」
私は軽く息を吐き、立ち上がった。
「こちらこそ、お会いできて良かったです」
一礼して、足元のバッグを手に取る。
「気を付けてお帰りなさい」
「はい」
私は足早に、部屋を出た。