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「ん、んんっ…」
辺りから何かが聞こえてくる。物を引きずる音の中に混ざった人の話し声が。
「……あれ?」
騒音に反応して体勢を変更。体を起こした瞬間に視界に飛び込んできたのは見慣れた教室だった。
「じゃあ宿題忘れた奴は居残りだからな。勝手に帰るんじゃないぞ!」
前方ではスーツ姿の男性が怒鳴り散らしている。隣のクラスにまで届きそうな大声で。
「しまった…」
どうやら居眠りしていたらしい。授業を区切るチャイムの音が辺りに鳴り響いていた。
「アイツ、うっぜぇ」
「宿題の量多すぎだっつの。デブのクセに調子乗んなや」
「力士なんだから大人しく相撲でもとってろっつの」
「わはは!」
周りにいる生徒達が口々に不満を漏らしている。主に皮肉を込めた悪態を。
扉を閉める音が聞こえると彼らは一斉に席を移動。授業の合間に訪れる自由時間の到来だった。
「次は気をつけないとなぁ…」
放心状態で後頭部を掻く。今までに授業をサボった事は無い。居眠りなんて生まれて初めての経験だった。
「……っしと」
机の上に置かれていた教科書類を引き出しの中に仕舞い込む。開かれていたノートのページはほぼ白紙。
寝ている間に不思議な夢を見ていた気がした。その内容は思い出せないが、奇妙な感覚だけが心の中に渦巻いていた。
「いい天気…」
片付けが終わると教室を出る。眠気覚ましに顔でも洗おうかと。
窓の外に目をやった瞬間に広々とした青空を発見。初夏を思わせる太陽が照り付けていた。
「ん…」
少し動いただけで汗をかいてしまう。けれど不快感はほとんど感じない。学校を抜け出してどこかに散歩にでも出かけてしまおうか。そんな気持ちにさせられる綺麗な世界が校舎の外全体に広がっていた。
「赤井《あかい》くん、ちょっと」
「はい?」
用を済ませるとトイレから出る。そこで甲高い声の人物と遭遇した。
「次の授業でね、辞書を使うのよ」
「は、はぁ…」
「だから悪いんだけど図書室から借りておいてくれないかしら。班の数分」
「えぇ……僕がですか?」
「じゃあ任せたわね。重たいけど頑張って」
「あ、ちょ…」
その正体は中年の英語教師だった。用があって話しかけてきたらしい。
渋る反応を見せるが意識してもらえず。一方的に雑用を押し付けられてしまった。
「……仕方ないか」
面倒くさい指令を受けてしまったが無視するわけにもいかない。教室へと戻ろうとしていた足の動きを階段の方に向けた。
「ワープとか時間の巻き戻しが使えたらなぁ…」
高校生にもかかわらず小さな子供のように漫画や映画の主人公に憧れていた。格好良い必殺技だけではなく、身勝手で自由奔放な性格に。
授業をサボったり、先生や上級生に反抗的な態度をとったり。へたれな人間にはとても真似出来ないような悪行の数々。馬鹿にしているわけではなく純粋な理想だった。
自身には無いスキルを持ち合わせているからこそ羨望の眼差しで見ていたのだろう。そんな生き方をしているキャラクター達を眩しく感じていた。
「……重っ!」
図書室へとやってくると10冊近くの辞書を手に取る。1冊につき約5センチ程の厚み。積んで持ち上げたのだが結構な重量になってしまった。
「これを1人で持つとか無理だよ…」
実行する前から予想していた展開を迎える。勉強道具がただの重りへと変貌する事態が。
「はぁ…」
白旗を掲げたいが今さら音を上げる訳にもいかない。サボってしまった代償による教師からの叱責が怖いので。
かといって周りには助けを求められそうな知り合いは不在。友人の少ない人間には絶望的な状況だった。
「ほっ!」
観念して単独でのミッション遂行を試みる事に。全神経を手元に集中させるとゆっくりと歩き出した。
「くっ、くく…」
覚悟は決めたものの辛いものは辛い。脆弱な体に過度の負荷がかかる。
更に周りからの好奇な眼差しにも耐えなくてはならなかった。目立ってラッキーなんて思えるタイプではない。心の中に溢れているのは爆発してしまいそうな羞恥心だけ。
「ひいぃっ…」
そしてどうにかして階段までやって来る。任務完遂にとって最大の山場へと。転倒しないように気を付けるが荷物が邪魔で前が見えない。窮屈な体勢での階段歩行は困難を極めた。
「うわっ!?」
「きゃっ!」」
何とか下り終えるがそこでハプニングが起こる。人との衝突が。
「……いちち」
手や足に僅かな痺れが発生。落下した荷物による手荒い攻撃だった。
「あ…」
不運を嘆きたいが今気にかけなくてはいけないのは自身の体の事ではない。すぐ前で同じように転倒している女子生徒の容体だった。
「だ、大丈夫だった!?」
「いっつぅ…」
「ごめん。前をちゃんと見ないで歩いてたから」
「……最悪」
「すいません…」
声をかけるが睨まれてしまう。親切心を突き放すような台詞と共に。
「どうしたの?」
「ん?」
怯んでいると近くにいた別の女子生徒が接近。衝突相手同様に全く面識の無い人物だった。
「聞いてよ。男子とぶつかっちゃってさぁ」
「あらら、マジか」
「しかも足に辞書が落ちてきて。もう痛いったらありゃしない」
「災難だったね~。てか加代子《かよこ》の日頃の行いが悪いんじゃないの?」
「なんでだよ!」
床に座り込んでいた女子生徒が立ち上がる。堂々と愚痴をこぼしながら。
「行こ。次の授業に遅れちゃうよ」
「だね。熊野《くまの》の奴、テメェが頻繁に遅れてくるクセに生徒が遅刻すると理不尽にキレまくるからな」
「……あ」
そしてそのまま友人と並んで歩き始めた。今の出来事を全く意に介さずに。
追いかけて再び謝ろうか迷う。しかし躊躇っている間に彼女達は廊下の奥へと姿を消してしまった。
「はぁ…」
自然と溜め息が漏れる。ぶつかった原因は自分の不注意だから仕方ない。ただそれでも無愛想な態度だけはとってほしくなかった。欲を出せば優しい声をかけてほしかった。
「……やだなぁ」
床に膝を突いて落下物を回収する。四方八方に散乱してしまっている辞書を。
「何あれ~」
「1人神経衰弱でもしてるんじゃないの?」
「やだ、もう」
「くっ…」
屈んでいると頭上から声が聞こえてきた。辺りを行き交う生徒達の笑い声が。奇異の目に晒されながらも作業を進める。誰もかれもが見ているだけで助けてなんかくれやしない。
「くそっ…」
まさか教師からの頼まれ事が原因でこんな恥をかく羽目になるなんて。拾い終わるとその場から逃げ出すように教室へと運んだ。
「……あ~あ」
神様を恨みたい。こんな人生を歩ませてきた事に。こんなへたれな性格で下界に送り出してきた無責任具合に。
悪いのは全て自分だと分かっている。それでも何かのせいにしてしまう方向に思考が動いていた。
もし1つだけ願いが叶うなら。もし時間を巻き戻す事が出来るのなら。口にするのは生まれたその瞬間からやり直させてくれという事。