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第64話 次の世界へ
静かな声だった。
「祖霊が飢える前に、捧げよ」
少年の喉が、ひくりと鳴る。神官は深く頭を下げた。
誰も逆らわない。逆らわせない穏やかさだった。
帝辛はもう一度、茶へ視線を戻す。
まるで政務のひとつを片づけたにすぎないように。
縫季の胸の奥で、魂の光がつよく震えた。
(……これも、お前だ)
その顔を、否定はできない。
迷わず切る王も、国のために血を選ぶ王も、確かに帝辛なのだ。
(これが、史書が切り取った帝辛だ)
(祭祀の帳が書かせた顔だ。儀礼と判だけで綴られた、血の匂いのしない記録)
迷いも、痛みも、削ぎ落とされた後の顔。壊れてもいない。支配されてもいない。
ただ――人間が、いない。
だが。
(これだけを、残したくはない)
後の世は、ためらいなくこの顔を拾うだろう。
笑わない王。迷わない王。民を守るために民を切る王。
史は、こういう顔だけを残したがる。
「……これでは、届かない」
知らず、言葉が漏れた。
その瞬間、庭の空気がふわりと揺れる。
尾の先が、縫季の肩をかすめた。
九尾だった。
姿は見えない。だが、そこにいる。
世界線の外側から、ただ観ている。
――届かない、か
縫季は答えない。
答えられない、の方が近かった。
帝辛は壊れていない。涙もない。支配されてもいない。
むしろ、王としては正しい。正しすぎるほど。
だからこそ、胸が痛む。
尾が、もう一度ゆるく揺れた。
――なら、問おう
意味だけが、縫季の胸へ沈む。
――お前は、どの帝辛を紡ぎたい
縫季の喉が鳴る。
九尾の問いは、冷たくも優しくもない。ただ、まっすぐだった。
――神話の王か――暴君として記された王か――それとも、記録が捨てた王か
縫季の胸の奥で、何かが大きく鳴った。
縫季は拳を握った。
「……神話に押し上げられた顔じゃない」
尾が揺れる。
「暴君として固定された顔でもない」
庭の向こうの帝辛は、まだ静かに座っている。茶の湯気は薄れ、誰にも渡されぬまま冷えていく。
縫季は、その光景から目を離せないまま、続けた。
「俺が紡ぎたいのは、史に使われたあいつじゃない」
喉が痛い。それでも、言葉は止まらなかった。
「後から意味をつけられた王じゃない」
胸の中の光が、かすかに熱を返す。
「あいつは、見捨てたくなくて、だから苦しんだ」
九尾の尾が、少しだけ止まる。
「誰かを安心させるために、笑おうとしていたんだ」
縫季の呼吸が、浅くなる。
「……全部、あいつなんだ」
その言葉は、庭の静けさに沈んだ。
「でも、これだけで終わらせたくはない」
言い切った瞬間、縫季の中で何かがはっきりした。
暴君にされる前の帝辛。神話に堕ちる前の帝辛。まだ、人として迷いながら立っていた帝辛。
そこへ、辿り着きたいのだ。
九尾の意味が、ゆるやかに落ちる。
――ようやく、自分の欲しいものを言ったな
縫季は目を閉じた。
欲しいもの。その言葉は痛い。
任務ではない。補正でもない。観測でもない。
欲しいものだ。
「……そうだ」
否定する気力は、もうなかった。
「俺は、あの人が暴君にされる前を紡ぎたい」
庭の向こうで、帝辛がふいに顔を上げた。
真っ直ぐ、こちらを向く。その目は一瞬だけ、何か失ったものの気配を掠めたように細められた。
縫季の胸が強く鳴る。
一歩、踏み出しかける。
尾が肩へ絡む。
柔らかい。だが、抗えない。
――行くな
「……分かってる」
――本当にか
縫季は帝辛を見た。
穏やかだ。整っている。正しい。
だが、その正しさの中には、縫季が紡ぎたい帝辛の終着はない。
「ここでは、まだ届かない」
尾が、わずかにほどける。
九尾は導かない。答えもくれない。
ただ、意味だけを置く。
――ならば行け――お前が拾いたいものが、まだ沈みきっていないうちに
縫季は掌の光を握りしめた。
帝辛の魂の断片が、今度ははっきりと熱を返した。
同意している。少なくとも、この世界ではないと。
縫季は最後にもう一度だけ帝辛を見た。
穏やかで、静かで、どこまでも遠い王。
縫季は縫い目を開いた。
空気が裂ける。白い光が滲む。
跳躍の直前、帝辛の視線が、またわずかに揺れた気がした。
気のせいかもしれない。それでも、縫季はもう振り返らなかった。
世界が反転する。
輪郭がほどける。息が乱れる。有限の体が、また少し削れる。
それでも。
胸の奥の光は、さっきより確かな温度で震えていた。
(まだ……行ける)
縫い目が閉じる刹那、九尾の尾がわずかに揺れた。
縫季には、もう分からない。
ただ一つだけ。
次に探すべき帝辛の輪郭だけは、はっきりしていた。
その一面だけで閉じられる前の、帝辛。
縫季は、その線を求めて次の世界へ消えた。
コメント
1件
第64話、じっくり読ませていただきました。九尾の「問おう」のところ、すごく好きです。縫季がようやく自分の“欲しいもの”を口にする瞬間、こちらまで息を呑みました。「全部、あいつなんだ」って言葉に、彼の迷いの全部が詰まっている感じがして……。正しすぎる帝辛の姿を見つめる縫季の痛みが、ひたひた伝わってきました。次の世界へ向かうラストの疾走感、とても美しかったです。