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第65話 灯台の盲
縫季が消えた。
管理官は、その事実を三度確認した。
白い記録盤へ手を置き、香の波を辿る。縫季の職能接続を追う。世界線の層を探る。
――ない。
感応が、途切れている。
古い時代の灯台には、捜索だけを担う者も、違反事例だけを審理する者もいない。任務を照合し、帰還を確認し、記録を閉じる。そのすべてを担ってきた管理官が、白い霧の向こうを見つめていた。
縫香官が世界線へ飛び込む瞬間は、毎回記録される。到達点。着地層。香の濃度。すべて、数の形で刻まれる。
だが今回は――何もない。
到達点が記録されていない。着地層が読めない。香の濃度に至っては、飛び込んだ瞬間から途絶えている。
(……どこへ行った)
管理官は、記録盤の上に香の海を展開した。
白い波へ指先を差し入れる。情報が流れ込むはずの場所で、何も返らない。
過去の縫香官たちの任務記録。世界線の補修履歴。帝辛の因果核に紐づく観測情報。
すべて揃っている。
だが、縫季だけが――消えている。
(記録が、ない)
管理官の指が止まった。
記録がないものは照合できない。照合できないものは、灯台の判断根拠にできない。
当時の規定は、それを「存在しない」とは書かない。ただ、「観測外」とだけ記して閉じる。
けれど管理官は、記録を閉じられなかった。
(追えない)
その四文字が、白い空間の中で静かに落ちた。
管理官は、縫季が最後に立っていた座標を何度も開いた。魂の光を掴んだ瞬間の香の乱れ。制止の香縄が弾けた際の残響。本人の意思を確認した声。
そこまでは、記録されている。
その先が――ない。
(……欠けている)
記録の欠けは、故障ではない。灯台の機構は、今も正常に稼働している。香の海は揺れているが、崩れてはいない。
ならば――欠けの正体は何か。
(灯台の盲――観測できない領域)
言葉としては知っていた。だが、そこへ一人の職員が落ちた事実を前にすると、規定上の用語では済まなかった。
直面しなかったのか。それとも、これまでも直面していたが――記録できなかったのか。
白い霧が、静かに揺れる。
管理官は答えを出さないまま、欠けのある記録を見つめ続けた。
縫季の最後の声が、まだ白い空間に残っていた。
「……戻らなくていい」
その言葉は記録されている。
管理官は照合欄へ記す。
職員識別符号・第五八層第六九二七号。本人選択による緊急有限化。到達層――観測不能。
だがその先の縫季は、記録の外にいる。
◆
縫季は、落ちていた。
落ちる、という表現が正確かどうか分からない。ただ、足元に何もなかった。上にも何もなかった。前にも後ろにも――何もなかった。
香がない。
それが最初に気づいたことだった。
世界線を渡る時、必ず香の波がある。薄くても、どこかに流れがある。その流れを掴んで、縫季は渡る。
今は――ない。
白でもない。黒でもない。
ただ、何もない。
(……どこだ)
縫季は胸に手を当てた。
帝辛の魂が、かすかに脈打っている。温かい。それだけが、確かにある。
縫季は息を吸おうとした。空気があるかどうか分からない。でも、肺が動いた。肺が動くなら、息はある。
(……生きてる)
呟いて、そのことが奇妙だと思った。灯台に所属しているあいだ、縫季の魂は人界の寿命から離れていた。でも今は――死ねる。帝辛の魂を抱えて有限になった体は、こういう場所でも、ちゃんと怖い。
縫季は足を踏み出した。
足元に何もないはずなのに、踏み出せた。
何かに乗っているのではなく、何かを押しているような感覚。
霧でも光でも波でもない何かの上を、縫季は歩いた。
(灯台の気配が……ない)
それに気づいた瞬間、胸の奥で小さな音がした。
灯台の観測網は、任務中の縫季と常にどこかで繋がっていた。管理官が近くにいなくても、波の向こうに照合の気配がある。
コメント
1件
縫季が「観測外」に落ちた瞬間、すごく静かで怖かったです……。 管理官が記録を閉じられずに白い霧を見つめてる姿も、縫季が何もない場所でちゃんと「怖い」って思える自分に気づくのも、全部が切なくて。 「戻らなくていい」という最後の言葉が、今も胸に残ってます。 帝辛の脈だけが確かにあるっていうのが、唯一の灯りみたいで……。続き、気になります🥀
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