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「美しい着物……」
凪は袖を握って、鏡の前でくるりと一周した。
(この着物は将臣様の同情……違うでしょ)
すぐに頭を振った。
(大事にしてくれている証拠なのよ!)
凪はそう思い込むようにしていた。
慰労の宴が開かれる会場は、煉瓦造りの洋館だった。
礼装姿の将校たちが次々と馬車から降り立ち、その隣には色鮮やかな着物を纏った夫人たちが並ぶ。玄関の硝子窓からは煌々とした灯りが漏れ、軍楽隊の演奏が聞こえてきた。
凪は馬車から降りようとして、思わず足を止めた。
(こんな立派な場所……)
隣へ回った将臣が、静かに手を差し出した。
「足元に気をつけろ」
「……はい」
凪はそっと、その大きく温かな手に触れた。
将臣は自然な仕草で凪の歩幅に合わせて歩き始める。
入口では衛兵が将臣を見るなり姿勢を正し、敬礼した。
「安藤少佐、お待ちしておりました」
将臣も軽く会釈を返す。
その姿は、家で見る穏やかな姿とはまるで違っていた。
濃紺の礼装軍服に勲章が輝いていた。軍帽を手にした横顔には一切の隙がなく、凛とした空気を纏っていた。
(将臣様……)
思わず見惚れる。
(こんなにも立派なお方だったんだ)
傷跡さえ威厳の一部のように見えた。
将臣は凪の視線に気づくと、小さく首を傾げた。
「どうした」
「い、いえ……」
慌てて首を振る。
「……今日は、いつもと違って見えて」
そう言うと、将臣は少し照れたように視線を逸らした。
「礼装だからだ」
将臣の隣を歩く、それだけで凪の胸がいっぱいになる。
受付を済ませると、知り合いらしい将校たちが次々と歩み寄ってきた。
「安藤少佐、お久しぶりです」
「少佐、このたびはご結婚、おめでとうございます」
将臣は穏やかに頷き、隣の凪へ視線を向けた。
「紹介する。妻の凪です」
一言だけだった。
けれど、その言葉は凪の胸へ真っ直ぐ届いた。
「初めまして、桐谷……いえ、安藤凪と申します」
緊張しながら頭を下げる。
「これはこれは、美しい奥様ですな」
「少佐にはもったいないくらいですよ」
周囲から笑い声が上がる。
将臣は少し困ったように眉を下げながらも否定はしなかった。
(妻って……紹介してくださった。私は、将臣様の隣にいていいんだ)
藤色の着物の袖をそっと握りしめながら、凪は幸せを噛み締めた。
会場へ入ると、将臣は礼装の胸ポケットへ手を入れた。
「あ……」
取り出したのは、小さく折り畳まれた紙──結菓子を包んでいた包紙だった。将臣は思わず目を細める。
「それ、捨てましょうか」
副官が声をかける。
将臣は静かに首を横へ振った。
「いや。これも、大事なんだ」
包紙の皺を指先で丁寧に伸ばし、もう一度きれいに折り畳み、再び胸ポケットへしまった。
凪はそれをじっと見つめていた。
(そんなに大切に持っていてくださったんだ……嬉しい)
「安藤少佐、少しよろしいですか」
真鍮の丸眼鏡を掛けた小柄な下士官が、丁寧に頭を下げて将臣へ声を掛けた。
「ああ、宝生衛生曹長」
将臣は凪へ向き直った。
「少し席を外す。ここで待っていてくれ」
「はい」
凪が小さく頷くと、宝生は丸眼鏡の奥の目を穏やかに細めて一礼し、将臣とともに将校たちの輪へと戻っていった。
そのすぐ近くで、将校たちの会話が耳に入る。
「安藤少佐ほどの方なら、とっくに昇進していても不思議じゃない」
「実力は申し分ないのに、ご本人が望まれないそうですよ」
「もったいない話ですな」
凪は思わず将臣の背中を見つめた。
(昇進を……望まない?)
確か、以前、将臣は父ともそんなやりとりをしていた。
(どうしてなのだろう)
凪の胸の中で、小さな違和感が静かに芽生えた。
その時、凪の元へ一人の軍人が歩み寄ってきた。
三十代半ばほどの、穏やかな笑みを浮かべた男性だった。
「失礼。安藤少佐の奥様ですね?」
「はい」
「安藤少佐、ご結婚されたんですね。やはり、約束を守られたんだ」
凪は首を傾げる。
「約束……ですか?」
「ええ。桐谷さんとの約束ですよ」
凪の表情が固まった。
「……兄をご存知なのですか?」
軍人は目を丸くした。
「あれ? 安藤少佐から何も聞いておられないんですか?」
しまった、とでも言いたげに頭を掻く。
「いや……これは私が話すことじゃないな」
「お願いです。兄のことを教えてください!」
真っすぐ見つめられ、軍人は困ったように苦笑した。
「大した話じゃないんです。戦地では……少佐は、ずっと後悔されていたんですよ」
小さく続ける。
「桐谷さんを……見捨ててしまった、と」
(──み、捨てた……?)
凪の息が、ひゅっと喉の奥で止まった。
その言葉が耳へ届いた瞬間、会場の賑やかなざわめきが、すっと遠ざかっていく。
軍楽隊の音も、誰かの笑い声も、何も聞こえない。
指先からひどく冷えてくる。
凪はゆっくりと視線を上げる。
会場の向こうで、将臣が軍医たちと穏やかに話していた。時折、小さく笑っている。
その優しい横顔が、今はどうしても遠く感じた。
戦地で……兄様を見捨てた
だから……兄様との約束を守るために
私を迎えてくださった……
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
藤色の着物が、急に重たく感じた。
今日見せてくれた笑顔も、
「妻です」と紹介してくれた声も、
胸ポケットへ大切そうにしまった結菓子の包紙も。
すべてが、別の意味を持ち始める。
(兄様を見捨てた罪悪感を埋めるために、私を迎えたの?)
凪は冷えた指先を、そっと強く握り締める。
(私は……将臣様が望んで迎えた妻ではないのかもしれない)
呆然と立ち尽くす凪の耳には、しばらく周囲の音が聞こえてはこなかった。