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翌朝、着替えを済ませた将臣は炊事場を覗いた。
いつもなら湯気の向こうで凪が鍋をかき混ぜているはずなのに、今日はガランと静まり返っていた。
「……凪?」
急いで部屋へと向かう。襖に手をかけるが一瞬ためらい、先に声をかけた。
「起きているのか? 体調でも悪いのか」
耳を澄ませ、返事を待つ。
「……すみません。寝坊してしまいました」
奥から凪の声が聞こえ、将臣は安堵するように小さく息を吐いた。
「祝宴の疲れが出たのだろう。今日はゆっくりしていなさい」
(初めてのことだったからな。緊張もしたのだろう)
「……ありがとうございます」
「では、仕事に行ってくる」
「……行ってらっしゃいませ」
凪の声は、戸外の喧騒にかき消されそうなほど弱々しかった。
炊事場の前を通る際、将臣は棚の薬箱に目をやった。
(せっかく凪が作ってくれたのだ。塗っていくか)
木箱から軟膏を取り出し、蓋を開ける。表面が、ひと匙掬ったように綺麗に抉れていた。
(……使ったのか?)
誰が使ったのか気にする風もなく、将臣は軟膏を指先に取った。
(なめらかに伸びて、使いやすい……ありがたいな)
蓋を丁寧に閉め、大切に箱へと戻した。
玄関の戸が閉まる音が響き、凪はようやく布団から顔を出した。
力なく鏡台を覗き込む。
「目……腫れちゃってる……」
そっと自分の瞼を撫でた。
(昨日は眠れなかった……。こんな顔、将臣様に見せたくない)
しばらく鏡台の前で動けない。しかし、ふっと顔を上げた。
「……仕事を、しないとね」
立ち上がり、布団を押し入れに片付ける。その布団をじっと見つめた。
(部屋が別々なのも……お互いに触れることがないのも……そういうこと、なのかな……)
凪は唇をギュッと噛み締め、力なく襖を閉めた。
凪は勢いよく鍬を振り上げた。
「よいしょっ……!」
硬い土を無我夢中で耕していく。
「もっと薬草を育てないと……っ」
額から汗が垂れても、手のマメが破れても、凪は構わず作業に集中した。
「私の薬を待っている患者様がいるんだから……っ!」
畝を作り、種を蒔き、水をやる。そして、再び鍬を握りしめた。
気がつけば、空の色が変わっていた。
「……もう夕方? 薬を作らないと。その前に、夕餉の準備をして……」
(やることは、たくさんある。じっとしている暇なんてないわ)
凪は急いで手を洗うと、休むことなく炊事場へと向かった。
「……ただいま戻った」
将臣が玄関の戸を開けると、目の前にはいつも通り、凪が待ち受けていた。
「お疲れ様でした、将臣様」
にこりと微笑む凪の顔を見て、将臣はほっと胸を撫で下ろす。
「体調はどうだ?」
「はい。休んだら良くなりました! おかげ様でたくさん働けています」
鞄を受け取りながら、凪は饒舌に言葉を重ねる。
「そうか。休めたようで、よかった」
居間へ入って座卓を見たとき、将臣は違和感に気がついた。
「なぜ、夕餉が私の分だけなんだ? 凪は……?」
「私はこれから、近所にお薬を届けに行ってきます。ようやく、咳止めが調合できましたので」
凪の表情はどこか生き生きとしていた。
(良い顔をしているな……)
将臣はそう受け取ってしまった。
「一緒に行こう。どこの家だ?」
「近所ですから、一人で大丈夫です。先に召し上がっていてくださいね」
そう言うと、凪はすっと部屋から出ていってしまった。
将臣は座卓についた。
夕餉は、香ばしく焼けた魚に青菜の和え物、そして湯気の立つ味噌汁。
(仕事も食事も手を抜かない……すごいな、凪は)
将臣は何も知らぬまま、温かな食事に手をつけた。