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「実篤さん、十四日。お仕事が終わられてからでええですけぇ……うちにちょっとだけお時間を頂けますか?」
年が明けて割とすぐ。二人で一緒に広島へ行った。
お互い気分が昂ったにも関わらず、なまじ市外へ出ていたりしたものだから、家に帰るまで我慢が出来なくて初めてラブホテルに入ってしまった。
結局ちょっとだけ休憩のつもりが、危うく宿泊になりかねない時間――二十一時過ぎまでイチャイチャして、 さすがに帰りの運転は結構しんどかった実篤である。だが、思う様くるみを抱いた気怠さだと思えばむしろ清々しいくらいだった。
あの日向こう一週間分はしっかりとくるみを堪能し尽くしてチャージ出来た気がしたのに、実は今現在くるみロスの真っ只中。
というのも――。
あれ以来バタバタして、気が付けばくるみが移動販売でクリノ不動産横の駐車場へパンを売りに来る以外ではまともに会えていなかったからだ。
不動産業には年間を延べて見たとき、繁忙期が二回と閑散期が一回ある。
新生活が始まる一月から三月、転勤シーズンに当たる九月と十月が繁忙期に当たり、逆に梅雨や夏の暑さで引っ越しが敬遠される六月から八月は引っ越し件数自体がぐんと減る閑散期と言われている。
くるみと付き合い始めたのは去年のお月見の後なので、クリノ不動産も御多分に漏れず繁忙期のど真ん中だった。
あの頃は付き合い始めたばかりで、お互いの仕事のペースも掴めなくて、 結構無理をしてでもくるみに会う時間を作っていた実篤だ。
だがあの時はやたら気分がハイになっていたからか、無理を無理とも感じずに突っ走ることが出来ていた気がする。
そこから十一月、十二月と仕事自体は落ち着く時期にさしかかったものの、年末年始は家のことに手を取られて思ったほどくるみと会う時間が取れなかった。
おまけに諸々緩慢になって気が抜けたからか、二人にとって重要な初めてのクリスマス時期にインフルエンザに見舞われると言う体たらく。
実篤は、くるみに会えたら際限なく求めたくなってしまうのは、次にゆっくり出来るのがいつになるか分からないと言う不安からな部分が大きいのではないかと思い到った。
(一緒に住めたらええんじゃけど)
なんてホテルで真逆のことを心配した頭で、実篤はついついそんなことを夢想してしまう。
***
「社長、まぁーた良からんことを考えちょってでしょう? お顔が気持ち悪いことになっちょりますよ?」
経理事務の野田千春にグサリと刺されて、実篤は無意識に緩んでしまっていた口元を慌てて引き結んだ。
***
就業後にくるみと会う約束をした二月十四日。
実篤の仕事が終わったのは、定時を大幅に過ぎた二十時過ぎだった。
いくら繁忙期とは言え、実篤は従業員らにはあまり残業をさせたくないと思っている。
そもそも経理の野田には家庭があるし、総務の田岡と営業の井上には、各々ラブラブの恋人がいる。
ましてや今日はバレンタインデーだ。
自分のことをくるみが待ってくれているように、きっと田岡と井上にも恋人が待っているだろう。
「ホンマすみません」
三人が申し訳なさそうにペコペコと頭を下げるのを見て、「バカじゃのぉ、みんな。定時過ぎちょるんじゃけ、何を遠慮することがあるんよ」と言って笑顔で送り出した実篤だ。
「社長。俺、彼女もおらんですし、独り暮らしですけぇ最後まで付き合いますよ⁉︎」
彼女との結婚が秒読みらしい井上と同じく、営業をしてくれている宇佐川――前にくるみを狙っていたと暴露したことがある前科持ちの二十四歳――がそう言ってくれたけれど、彼にだけ残業をさせるわけにはいかないではないか。
「変な所で気ぃ遣わんでええよ。ホンマ、俺だけで大丈夫じゃけ、宇佐川くんも遠慮せんと早よ帰りんさい」
彼女がいなくたって、家へ帰ればそれなりにやることもあるだろう。
最近仲間と共闘してモンスターを狩るオンラインゲームにはまっているらしい宇佐川は、ギルドマスターの女性にご執心で夜更かし気味だと話していた。
恋人はいないのかもしれないけれど、気になる女性がオンライン上にいると言うならば、早く帰ってその趣味に時間を費やせばいい。
そう思った実篤だったけれど、ここ数日あくびが目立つ宇佐川を思い出して、ちょっとだけ軌道修正。
(まぁたまにゃー自制して、日付が変わる前に寝れよ?)
そんなことを思う。
それでも尚も「でも」と言い募る宇佐川に、「ゲームん中。バレンタインイベントとかないんか?」と聞いたらハッとしたように瞳を揺らせた。
どうやらビンゴだったらしい。
「ほら、あるんじゃろうが。だったら遠慮せんと帰れ」
ニヤリと笑いながら言ったら、宇佐川は「ひっ」と声を漏らしてから、何度も何度も頭を下げて申し訳なさそうに帰って行った。
そんなこんなで一人残って残務処理をこなした実篤である。
今日は契約件数もいつもより多めだったので、書類も常より多かった。
くるみが、そんな自分をヤキモキしながら待ってくれているのは分かっていたけれど、それと同時。実篤はここの最高責任者として、くるみに会うことを理由に仕事の面で手を抜きたくないと思ってしまった。
きっと自分のために実篤がそんなことをしたと知ったら、くるみだって怒るだろう。
***
くるみはクリノ不動産から少し行った先、二号線沿いにあるファミリーレストラン『ガストン』でドリンクバーでお茶をにごしながらそんな実篤のことを待ってくれていた。
「お忙しい時期なのにすみません」
くるみにとってこの時間は、いつもならもう家に帰っていて、明朝の早起き――パンの仕込み――に備えて就寝する頃だ。
ましてや今いる立石町からくるみが住む御庄までは車で片道二十分は掛かる。
実篤の方こそくるみの睡眠時間を削ってしまって申し訳ないと思っているのに、くるみはどこまでも謙虚で優しかった。
「俺の方こそごめんね。くるみちゃんと約束しちょったのに遅ぉなってしもーて」
実篤はガストンに入るなり「こっちです」と手を振ってくれたくるみへ駆け寄ると、二人してペコペコと頭を下げ合った。
何だかその様がおかしくなって、顔を見合わせて笑ってしまう。
「くるみちゃん、もう夕飯とか食べた?」
とりあえず何か注文しようとメニューを広げながら実篤が聞いたら、くるみがフルフルと首を振って、ドリンクバーだけで粘っていたと答えた。
「それならさ、もし食べる時間ありそうなら折角じゃし一緒に食べん?」
くるみが、そんな実篤の提案に嬉しそうににっこり微笑んで頷いてくれるから。
実篤はもう一揃えあったメニュー表をくるみに手渡した。
「俺はこれにする」
「うちはこれ」
二人で、銘々が見ていたメニューをパタリと机に広げて「これ」と指差したら同じもの――香るキノコトッピングのチーズインハンバーグセット――。
そんな些細なことですら何だか嬉しくなってしまった。
***
「明日、お休みじゃったら良かったですね」
ゆっくりできないのは残念だと言外に含ませながら、くるみが綺麗なリボンの取り付けられた紙袋を手渡してくれた。
実篤はそれを受け取りながら「本当にそれっちゃ」と眉根を寄せる。
「……えっと、それ、バレンタインデーの……です」
本題はそっちだろうに、くるみが照れ臭そうについでみたいにポツンと付け加えるから、実篤まで何だかあてられて恥ずかしくなってしまった。
まるで中学生同士の初々しいバレンタインみたいなやり取りが、ガストンの駐車場の片隅――奥まった一角の外灯下――で繰り広げられている。
「中、見てもいい?」
それは実篤の手のひらに載るぐらいの小ぶりな紙袋で、大きさの割に結構軽め。
雰囲気的に中身はパンかな?と思った実篤だ。
くるみがコクッと頷いたのを確認して、実篤は綺麗な赤のチェック柄マスキングテープで留められた封を解いて中を覗き込んだ。
「あ、あの……か、変わり映えがせんのんですけど……うちが初めて実篤さんに食べてもらったのがそれじゃったけぇ」
くるみが言った通り、中には二人の思い出の品――甘さ控えめなビターチョコ入りの大人向けチョココロネ――が〝ひとつだけ〟入っていた。
「ホンマはもっと一杯入れた方がええかな?って思うて……。三つ、四つ包もうかとも思うたんです。じゃけど――」
実篤と付き合っていく中で、彼が甘いモノが余り得意ではないと知ったくるみだ。
クリノ不動産に出向いた際、実篤は従業員用にチョココロネを沢山買ってくれるのを常とはしているけれど、必ずそれとは別に自分用の惣菜パンをいくつか購入するのを知っている。
「沢山あったら実篤さん、食べるん困ってしまいそうですけぇ」
そんなことはないとは思うけれど、もしかしたら従業員の誰かにあげてしまう可能性だって無きにしも非ずだ。
確実に食べてもらうならひとつに限る。
くるみはそう考えたのだと言う。
実篤はくるみの言葉に思わず笑わずにはいられない。
「くるみちゃん、俺のこと把握しすぎじゃろ。照れるわ」
それが、凄くくすぐったくて嬉しかった。