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岩国市横山にある吉香公園の梅の花が咲き乱れる三月の初旬頃。
くるみと一緒に園内を歩きながら、実篤はソワソワと落ち付かない。
公園周辺には 原種に近い丈夫な系統で、葉がやや小形で枝つきが細い「野梅系」。
野梅系から変化したもので、枝や幹の内部が紅く、花は紅色・緋色のものがほとんどの 「緋梅系」――これには花が白くても、枝の髄が紅いものも含まれる――。
梅と杏との雑種で、葉は大きく育ちの良いものが多い「豊後系」――杏に近く、花は桃色のものが多い――の三系統の梅が植えられており、計二百本余りの梅たちが、少しずつ時期をずらして訪れる人々の目を楽しませてくれる。
「梅の花、凄く綺麗ですね」
横を歩くくるみにそう声を掛けられて、実篤は「そうじゃね」と答えながらも、内心(くるみちゃんの方が綺麗じゃけぇね!?)と思わずにはいられない。
今日のくるみは白のハイネックセーターに、からし色のタータンチェック柄のジャンパースカートを重ねている。
大きく開いたVネックの胸元と、綺麗なAラインを描くロング丈のフレアシルエットがとても女性らしい。
寒さをしのぐため、その上に羽織った白のふわふわもこもこのファージャケットが、どことなく白ウサギを連想させて、思わずギュッと抱き締めたくなる可愛さだった。
「――……ですね」
彼女の愛らしさに見惚れている内に、くるみから何か話し掛けられていたらしい。
「もぉ! 実篤さん、うちの話、聞いちょりますか?」
クイッと、コートを羽織った腕を引っ張られて、実篤は慌ててくるみに視線を合わせた。
「あー、ごめん。くるみちゃんがあんまり可愛いけん、見惚れちょった。――で、何て言うたん?」
ぼんやりしていたあまり、思わず本音をポロリとこぼしたら、見る見るうちに真っ赤な顔になったくるみから「いきなりそんとな不意打ち……ずるい」とつぶやかれた。
それがまた悶えたくなるくらい可愛い。
「あー、もう我慢出来んっ」
言うなり、実篤はくるみをギュッと腕の中に抱き締めた。
「ひゃっ! 実篤さっ、ここ外っ」
園内には美しい梅の花々が、所狭しと咲き乱れている。
それをお目当てに、結構な数の人々が梅を見に吉香公園を訪れていた。
日本三名橋のひとつ、錦帯橋と、山城である岩国城に挟まれる立地条件の吉香公園には、季節を問わず観光客が訪れる。
だがやはり園内の花々――桜や梅や菖蒲など――が見頃を迎えるシーズンは、何もない季節より人出が多い。
その人たちの視線を気にしてくるみがソワソワと身じろげば、実篤は「悪いけどそんとなん気にしちょる余裕ないわ」とぼそりとつぶやいた。
「きっ、気にしてくださいっ」
くるみが懸命に実篤の胸元。抱きしめられているためどこかくぐもって聞こえる声で抗議したけれど、実篤はお構いなしな様子でくるみを腕の中に閉じ込めたまま。
身の内を滾る激情を持て余したみたいに小さく吐息を落とした。
***
「それで……、さっきは何言うたん?」
実篤、男としてはそれほど大柄な方じゃない。
身長は一八〇センチない(一七六センチ)のが自分としては結構不満なところなのだけれど、それでも幸いと言うべきか。
愛しいくるみが一五二センチと、女性としても小柄な方なので、身長差的には申し分ない体裁を保てている。
今まで付き合ってきた年上女性たちは、皆こぞって一六五センチを超えた人達ばかりだったので、ヒールのある靴を履かれたりすると、もう少し自分に身長があればと思わされることが多かった。
だが、くるみに関してはそういう負い目を感じさせられること自体皆無。
くるみが前髪をふんわりと立てたポンパドールを好むのは、自分の小ささを意識してのことらしいと知った時、そういう背伸びですら実篤には愛しくてたまらなかった。
その身長差のお陰でくるみをギュッと抱きしめた時、彼女の頭頂部にあごが載せられてしまうくらいの位置関係になるのが、実篤は嬉しくて仕方がない。
そんなわけで、くるみを腕の中に抱きしめてからずっと。
彼女のふわふわの髪の毛から女性らしい甘やかな香りが立ちのぼってくるのを胸一杯に吸い込みながら、(女の子っちゅーんは何でこんなに良い匂いがするんじゃろう)とうっとりさせられている実篤だ。
「……えっと、さっきはうち、『デートするん、久しぶりで楽しいですね』って言いました」
そんな小さくて愛くるしいくるみが、恥ずかしそうに耳まで赤く染めてはにかむから、実篤は彼女を抱きしめる腕に力を入れ過ぎないようセーブするのに非常に苦労している真っ最中。
「何か改めて言うたら凄い照れ臭いんですけどっ。実篤さんがちゃんと聞いてくれちょらんけぇ」
照れ隠しだろうか。
ぷぅっと頬を膨らませて実篤を下から睨み上げるくるみが凶悪に小悪魔で。
結果、「あー、もうっ。何でくるみちゃん、そんなに可愛いんよ! 反則じゃろ」と、くるみにとっては『何でですか⁉︎』という不満を漏らして、ひとりフルフルと身体を震わせる羽目になった。
***
「ホンマ、このクソ忙しい時期に申し訳ない!」
朝礼が終わるなり、「すまんけど今日は夕方に用があるけぇ少し早めに帰らせてもらいたいんじゃけど」と思いっきり頭を下げた実篤に、従業員の皆はいつも実篤がバレンタインデーの日にしたように気遣ってくれる社長だと言う恩義もあってだろう。
「……何を気にしちょってんか知らんですけど、私ら社長が思うちょってよりよっぽど優秀ですけぇね? 社長がちょっとぐらいおらんなったけぇって業務に支障なんてきたしたりせんですけぇ安心して早よぉ帰って下さい。たまにゃあ恩を売らしてもらわんと売られるばかりじゃも気持ち悪いですし。ドーンと来い!です!」
父・連史郎が社長を務めていた頃からクリノ不動産で働いてくれている古参の野田がそう言ったら、他の従業員たちも口々に賛同してくれて、 結果、昼過ぎには事務所から追い立てられてしまった実篤だ。
「いや、俺、ホンマ定時ぐらいまでなら……」
さすがにそれは早すぎるじゃろ?と思って、夕方まではおるよ?と言い募ろうとした実篤に「はぁ!? それじゃあ早よぉ帰る事にならんでしょうが!」とこれまた野田の叱責が飛んできた。
「そうだ! そうだ!」と総務の田岡が野田を援護射撃する形で背中をグイグイ押してきて、予定より半日も早く退社させられてしまった。
*
結局空いた時間で一旦自宅に戻って風呂と着替えを済ませた実篤は、スーツもクリーニング済みのいつもよりフォーマルなものに着替えてから、自宅で待機してくれているはずのくるみに恐る恐る電話を掛けてみたのだけれど――。
「くるみちゃん、予定より大分早いんじゃけど……迎えに行ってもええ?」
その頃には時刻は十五時過ぎを指していた。
くるみは毎朝四時前からパンを焼いたりして仕事を始めている。
移動販売車『くるみの木号』でパンを売り歩いて、パンが売り切れたら店じまい、が基本。
大抵はお昼時が一番の書入れ時で、十四時を過ぎる頃には帰宅しているらしいのだが。
終わり時間が定まっていない分、もしかしたらまだ出先かも?と懸念した実篤の杞憂を吹き飛ばすみたいに『今日はあっという間に売り切れたけぇ、もうバッチリスタンバイOKです!』とくるみの弾んだ声が返る。
本当はくるみとの待ち合わせは十八時だったので、三時間も早く電話を掛けたことになったのだけれど、くるみはそんな実篤に『約束と違います!』とか不平不満を言うことなく、むしろ大喜びで早めの迎えを歓迎してくれた。
(ホンマ、良い子じゃのぅ)
実篤は改めてそう実感させられる。