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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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「待って、どうする」
玲司は振り返ったまま言った。
千歳は、言葉を探した。見つからなかった。開けないでください、と言えば、理由を聞かれる。理由は、自分の右手にある。あるのに、言葉にならない。
「……明日、申し上げます。離れの前で」
玲司は、しばらく千歳を見ていた。
「そうか」
それだけ言って、書斎へ行った。柘植が、まだ時計を手に持ったまま、千歳を見ていた。
翌日の午後、広間に、親族が座った。
恭介と、年寄りが二人。前と同じ顔ぶれだ。藤乃はいない。梢もいない。今日は御堂の親族だけだ、と柘植が言った。
恭介は扇子を取り出す前から、声が大きかった。
「新聞を見たな。離れに女を囲う。身代わりの姉。御堂の名が、三面に出た」
玲司は答えなかった。
「もう隠しても無駄だ。離れを開けろ。この場で。狂女を隠す当主に、財閥は任せられん。親族がそう決める」
年寄りの一人が、頑いた。
玲司は立ち上がった。
「開ける」
千歳は、玲司の斜め後ろに立っていた。右手は、袖の中だ。今朝、鏡台の上の白い布を、自分で巻いた。十年、藤乃に巻かれた布を、今日は、自分の手で巻いた。解くためだ。
「庭へ」
玲司が言った。親族が立ち、柘植が戸を開け、全員が庭へ出た。お初が台所の戸口で、文が廊下の端で、見ていた。
梅の木の列を抜けて、離れの前に立った。
焦げた一本が、すぐ横にある。離れの戸は、閉まっている。昼だ。障子は、白い。灯りは、見えない。
玲司が、戸に手を伸ばした。
手が、戸の前で、一度止まった。
「お待ちください」
千歳は、玲司の前に出た。
出て、戸に背をつけた。古い木の戸が、背中に冷たかった。
恭介が、扇子を開いた。
「夫人。どけ」
千歳は、袖から右手を出した。
白い布が巻いてある。その結び目に、左手の指をかけた。
解いた。一巻き、二巻き。布が、足元の土に落ちた。
右手の甲が、六月の光の下に出た。
「見世物に、なさるなら」
声は、震えなかった。震えると思っていた。震えなかった。
「私の手を、先に」
恭介の扇子が、止まった。
「この手も、不吉と呼ばれて、育ちました。見られたくなくて、十年、袖の中に。顔を焼かれた方が、どれほど、見られたくないか。私には、少し、分かります」
年寄りの二人が、顔を見合わせた。
「狂女だと、仰いました。狂っているから、隠していると。違います。見られたくないから、隠れているのです。灯りは、見られると、消えます。私は、それを、三度、見ました」
背中の戸が、きしむ。
内側から、誰かが、戸に触れている。千歳は動かない。
「この戸を、開けるなら。私を、先に、どけてください」
恭介は、千歳を見ていた。扇子を持った手が、下がっていた。
後ろに、足音がする。
柘植だ。千歳の後ろに、立つ。立って、何も言わない。時計を、見ない。
玲司は、戸に伸ばしかけた手を、下ろした。
「……開けない」
低かった。
恭介が、顔を上げた。
「玲司。ならば、離れの娘は狂女だと、新聞に――」
「分家の、旦那様の、お名前で」
庭の端で、声がした。
文が、裏口から、お伝を連れてきていた。お伝は、御堂の古い前掛けをしていた。お初が貸したものらしい。
「あたしが、言いました。新聞の人に。分家の旦那様の名前で、言えと。有明の奥様の、使いの方に、お金を、いただいて」
お伝は、頭を下げた。下げたまま、言った。
「離れのことは、あたしが、洗い場で、見ました。見ただけです。それを、お金で、売りました。分家の旦那様が、そうお話しになっている、と言えば、新聞の人が信じるからと」
年寄りの二人が、恭介を見る。
恭介の扇子が、落ちた。
土の上に、落ちている。恭介は、拾わない。拾う間もなく、年寄りの一人が、言った。
「恭介殿。有明と、組んでおられたのか」
恭介は、答えなかった。答えずに、扇子を見ていた。
玲司は、何も言わない。怒鳴らない。ただ、「お帰りを」と、柘植に言った。
親族は、帰っていく。恭介は、扇子を拾わなかった。文が、あとで拾った。
夜になって、二人きりになった。
書斎の火鉢には、火がない。それでも、火鉢を挙んで、座った。
千歳の右手は、布を巻いていなかった。布は、庭の土の上に、置いてきた。拾わなかった。
「離れの前で、話すと言ったな」
玲司が言った。
「……話しました」
「そうか」
玲司は、灰を見ていた。
「君が、どけと言われて、どかなかった」
「はい」
「そうか」
長い、間があった。千歳は、その間を、埋めなかった。埋めるものが、なかった。あるのは、一つだけだった。
「……玲司様」
玲司の顔が、上がった。
千歳は、言ってしまってから、口を閉じた。旦那様、と言うつもりだった。口から出たのは、違った。初めて、名前を呼んだ。
玲司は、しばらく、千歳を見ていた。
「今のは」
声が、いつもより、少し、低かった。
「二人のときだけに、しろ」
「……はい」
障子の外で、足音がした。玲司の足音ではない。柘植でもない。
「御堂。いるか」
相馬だった。障子が開いた。鞄を左手に持ち替えて、相馬は書斎に入ってきた。離れから、戻ってきたところらしい。
「ああ、奥さんも。ちょうどいい」
相馬は、千歳を見た。よく笑う顔が、今は、笑っていなかった。
「あの子が」
鞄を、床に置いた。
「あなたに、会いたいと、言っている」
コメント
1件
第24話、読み終えました。千歳さんが自分の手を晒してまで離れを守ろうとした場面、すごく心に響きました……。あの「見世物になさるなら、私の手を先に」は、彼女のこれまでの痛みと強さがにじみ出ていて、何度も読み返しました。お伝の告白で恭介の陰が露わになる展開も巧いし、最後に初めて「玲司様」じゃなく名前を呼んだ瞬間の甘さと切なさがたまらないです。続き、相馬先生が何を伝えに来たのか気になって仕方ないです…!