テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「会いたい、と」
千歳は、相馬の言葉を、繰り返した。
離れの人が、千歳に。戸の内側から、千歳の背中に触れた、あの人が。
相馬は火鉢の横に座った。鞄は床に置いたままだ。玲司を見て、それから千歳を見た。玲司は、相馬を見ていない。灰を見ている。
「今日、離れの前で、奥さんが何を言ったか。あの子は、戸の内側で、全部聞いていました」
千歳は、息を止めた。
「見られたくないから隠れている。私には少し分かる、と。あの子は、それを、何度も、僕に繰り返した。繰り返して、それから、言った。あの人に、会いたい、と」
「御堂。言っていいか」
玲司は答えなかった。答えないのを、相馬は、いいと取ったらしい。
「あの子は、若い。奥さんより、ずっと若い。怖がりで、人の顔を、まともに見られない。火傷が、あります。顔と、腕に」
顔と、腕。
千歳は、自分の右手を見た。手の甲だけだ。それだけで、十年、袖の中だった。
「三年、離れから出ていない。僕が診ています。痛みは、もう、ありません。痕は、残ります。それは、仕方がない。僕は、痕は恥じゃないと言い続けていますが、あの子には、まだ、届かない」
「……その方は、おいくつで」
千歳は聞いた。相馬が、玲司を見た。
「御堂。それも、言っていいか」
「言うな」
玲司が言った。短かった。相馬は肩をすくめて、「だそうです」と千歳に言った。
相馬は、少しだけ笑った。
「でも、奥さんのことは、見ていたそうですよ」
「……私を」
「夜明けに、廊下を拭いているあなたを。離れの障子の隙間から。来て、三日目か、四日目か。女中でもないのに、膝をついて、雑巾を持っている人がいる、と。それから、毎朝」
千歳は、膝の上で手を組んだ。
夜明けの廊下。柘植に、奥様のなさることでは、と言われた朝。あの朝を、離れの人は、見ていた。
「それと、鼻歌」
相馬が言った。
「あなたが、土間で歌っていたのと、同じ節だそうです。あの子が、それを、覚えて、歌っている」
「土間で……」
千歳は、覚えがなかった。
有明の土間で、歌ったことはない。歌う気になったことがない。この家の土間でも、歌った覚えはない。
けれど、手が、覚えている気がした。雑巾を絞る手が、勝手に動く。その手に合わせて、口が、何かを、動かしていたかもしれない。母が、櫛で髪をとかしながら歌った、文句の思い出せない歌を。
あの昼、離れから聞こえた鼻歌。聞いたことがある節だと思った。
あれは、千歳の節だった。
「会いたいです」
千歳は言った。考える前に、言った。
玲司の顔が、動いた。
「あれは、まだ」
低い声だった。
「人を、見られない」
「見なくても」
千歳は言った。玲司の言葉を、途中で、止めた。初めてだった。この人の言葉を、途中で止めたのは。
「私も、不吉と言われて、育ちました。見られない気持ちは、分かります。見られたくない人を、無理に見ようとは、思いません。だから」
千歳は、玲司を見た。
「戸の外から、話すだけでも。障子を、開けずに。声だけでも」
玲司は、千歳を見ていた。
怒っているのか、分からなかった。この人の顔は、分からない。分からないまま、千歳は、目をそらさなかった。
相馬が、小さく、息を吐いた。
「……考えておく」
玲司が言った。
断らなかった。考えておく、と言った。千歳は、頭を下げた。下げた頭の上で、相馬が「御堂、それは」と言いかけて、やめるのが聞こえた。
障子の外で、柘植の時計の音がする。
「旦那様。お話し中に、失礼いたします」
「なんだ」
「大阪の工場から、電報が。明日、お発ちいただく必要が、ございます」
玲司が立った。
「期間は」
「十日ほど、と」
十日。千歳は、その数を、口の中で数えた。
玲司は、机に戻った。引き出しを開けて、何かを取り出した。
鍵束だった。
鉄の輪に、鍵が十ほど、束ねてある。玲司はそれを持って、千歳の前に立った。
「手を」
千歳は、両手を出した。右手も、左手も。
鍵束が、その上に置かれた。重かった。冷たくて、重かった。
「奥向きの鍵だ。蔵と、戸締まりと、帳場。柘植に聞けば分かる」
「……私が」
「留守を、頼む」
千歳は、鍵束を見た。
十年、鍵を持ったことがない。鍵は、藤乃のものだった。千歳は、鍵のない戸を開け閉めする側だった。
「ほかに、誰がいる」
玲司が言った。園遊会のときと、同じ言い方だった。
千歳は、鍵束を、両手で握った。
「はい」
「叔父が来ても、渡すな」
玲司は、千歳の手の上の鍵束を見ていた。
「離れの鍵は、別だ。柘植が持っている。それも、渡すな」
「……はい」
「十日で戻る。何かあれば、電報を打て。柘植が知っている」
千歳は頑いた。頑きながら、鍵束の重さを、手の中で確かめていた。この重さを、十日、持つ。
相馬が、鞄を取り上げた。
「じゃあ、僕は離れへ戻る。奥さん、今の話は、あの子に、伝えておきます。戸の外から、と」
相馬が出ていった。
柘植が、まだ障子の外にいた。時計を、懐に戻していなかった。
「旦那様。もう一つ」
「なんだ」
「権田からでございます。分家の旦那様が、今日の夕方、有明家へ」
千歳の手の中で、鍵束が、鳴った。
コメント
1件
第25話、読み終えたわ。あの子が千歳の鼻歌を覚えてたって伏線、ズルいな……グッときた。千歳が「会いたいです」って玲司の言葉を初めて止めたシーン、彼女の決意が伝わってきて胸熱になった。それで鍵束を預けられる展開、重みがちゃんと描かれてて好き。留守を託されるほど信頼される千歳の成長が沁みる。続き、どうなるんだろう。
草原草原(くさはらそうげん)

1,567
瑠璃マリコ
46,527