それはある日の午前中のことだった。
その日は薄暗く、雨こそ降っていないものの空には暗雲が立ち込めていた。
「うーん……今日、降るんでしょうか?」
場所は雨宮霊能事務所。外を眺めながら和葉がそう言うと、デスクに座った露子がさあね、と不機嫌そうに答える。
「こういう日は気が滅入るな」
「ですよねぇ……」
絆菜に同意しつつ、和葉は絆菜と向かい合うようにしてソファに座り込む。
「それはそうと露子、その仏頂面をどうにかしろ。天候のせいで機嫌が悪いのはわかるが依頼人を迎えられる顔じゃないぞ」
「アンタも大概仏頂面でしょうが!」
「それはどうかな? 最近の私は笑顔が増えている」
実際、絆菜はここに来たばかりの頃に比べてかなり表情が豊かになったように見える。それこそ露子の言うような仏頂面が昔は多かったが、最近は比較的表情が緩くなっていると言えるだろう。
「ったくどうでも良いわよアンタの表情なんか……」
露子はそう言って深くため息をつく。
ここのところ、状況は何も好転していない。
怪異は相変わらず出没し続けているし、瑠偉の話していた八尺女も犠牲者を増やすばかりだ。何度も八尺女を探して町の中を駆けずり回ったが、怪異を数体祓うだけにとどまっている。
その上殺子さんらしきモヤについても正体は掴めていない。あれからあのモヤは出現していないのだ。
「あ、お茶にしませんか? 今朝お母さんから良い茶葉をもらったんです!」
「……そうね。お願いするわ」
「はい! お茶菓子も出しちゃいましょう! こういう時はおいしいもので少しでも気分を良くしましょうよ!」
少し暗い空気の事務所を少しでも明るくしようと、和葉は努めて明るく振る舞う。本音を言えば和葉も色々不安ではあったのだが、それはなるべく表に出したくない。
(だって……浸さんならそうするから……)
今はそばにいない恩人の顔を思い浮かべながら、和葉は棚からマグカップを取り出そうとする。
「……あれ?」
しかし戸を開けてすぐに、和葉は異変に気づいた。
「どうした? 虫か? 露子、殺してやってくれ」
「……アンタ虫駄目なの……?」
平然と丸投げしてくる絆菜に、露子は呆れ顔でそう呟く。
「いえ、そうではなくて……」
和葉が取り出したのは、浸のマグカップだ。見れば、取っ手の部分が壊れて取れてしまっているのだ。
「そんなに古いものには見えないんですけど……どうしたんでしょうか」
なんだか不吉な気がして、和葉の表情が僅かに曇る。
「ああ、それくらいなら直せるぞ。貸してくれ、明日には直して持ってくる」
「じゃあお願いしても良いですか? 浸さんが帰ってきたら謝らないと……」
「なに、和葉先輩のせいじゃないだろう。謝ることはない」
マグカップを受け取り、そうフォローする絆菜だったが、彼女もまた嫌な胸騒ぎがするのを感じていた。
その後、和葉がもう一度お茶の準備をしようとすると、今度は事務所の固定電話が鳴り響く。表示されているのは城谷月乃の名前だ。
「城谷さんって……じゃあ!」
和葉が声を弾ませると、露子と絆菜も頷く。
「やっと終わったってワケ? これであたしも肩の荷が下りるわね」
「満更でもなさそうだったがな」
「……まあ、ね……。でも見てなさいよ! 今にここより大きくて綺麗な事務所建ててやるんだから!」
「それは楽しみだな。是非招いてくれ」
「……ちょっとくらいなら考えてやっても良いわ」
思いも寄らない露子の言葉に、絆菜は目を丸くする。
そんな二人を横目に見つつ、和葉は電話を取った。
「もしもし、雨宮霊能事務所です!」
少し声が上ずってしまうのを抑え切れないまま、和葉はなんとか定型句を言い切る。
だが次の瞬間、和葉はその場で受話器を取り落としかけた。
「……え?」
それに気がついて、露子も絆菜も表情を一変させる。そして次に和葉が口にした言葉を聞いて、二人は頭が真っ白になった。
「浸さんが…………死んだ……?」
告げられた事実はあまりにも信じがたく、そして残酷だった。
***
雨宮霊能事務所に月乃から連絡があった頃、瑠偉は准に稽古をつけていた。
場所は番匠屋心療内科の裏庭で、瑠偉と准は木刀で打ち合っている。
瑠偉の仕事はそれ程暇なわけではないが、どうにか空き時間を作ったり、休憩時間を利用したりして准の稽古に付き合っており、今日もどうにか作った空き時間でこうして稽古に励んでいた。
最初こそがむしゃらに振り回すばかりだった准だが、最近はだいぶ筋が良くなっている。時間の関係で技術的な指導はまだほとんど出来ていないが、瑠偉の動きを見て真似て少しずつ吸収しているようだ。
「准、最近だいぶ良い感じなんじゃない?」
「まだまだッス!」
当の本人はまだまだこの程度では満足するつもりはないらしい。
准自身、凶暴化する昨今の悪霊に対して思うところがある。これ以上傍観者ではいたくない、力をつけて、少しでも悪霊と戦えるようになりたい。そう思うようになってからは、よりいっそう稽古に身が入るようになっていた。
そんな稽古の中、瑠偉のポケットで携帯が振動し始める。瑠偉が一瞬それに気を取られた瞬間、准はここぞとばかりに踏み込んだ。
「そこッス!」
しかしそう甘くはない。瑠偉は片手で携帯を取り出しながら木刀で受け止め、適当にいなしてから携帯に耳を当てた。
「その感じで良いよ。悪くない」
「ありがとうございまッス!」
姿勢を正し、きっちりとお辞儀する准を見つつ、瑠偉は電話の相手と話し始める。
「もしもし和葉ちゃん? …………なんだって?」
しかしすぐに、瑠偉は血相を変える。
「……わかった。仕事が一段落したら一度顔を出すよ。とりあえず今は落ち着いて」
なだめるようにそう言って、瑠偉は一度電話を切った。
「……何かあったんスか?」
「……ああ」
携帯をポケットに押し込みつつ、瑠偉は神妙な面持ちで告げる。
「雨宮さんが亡くなった」
瑠偉のその言葉に、准は思わず木刀を取り落した。
「それ……ほんとッスか……?」
「らしいよ。なんでも、修行の途中で命を落としたらしい」
「そう……ッスか……」
うまく感情を口に出来ず、准は肩を落とす。そんな彼の心境をある程度察したのか、瑠偉は優しく准の肩を叩いた。
「前のこと気にしてんの?」
琉偉の問いに、准は一瞬口ごもる。
しかしやがて、絞り出すように悔恨の言葉を述べた。
「……はい。俺、酷いこと言ったッス……」
勝手に幻想を押し付け、感情のままに浸を責め立てた。あの時は間違ってないと思ったし、幻滅させるような浸が悪いと思い込んでいた。
しかし真面目に稽古をするようになって、少しずつわかってきた。才能のない雨宮浸が、どれだけの鍛錬を積んで戦いに臨んでいたのかを、少しずつ想像出来るようになってきた。
「……俺、俺……」
「あの人は遅かれ早かれこうなる運命だった。准が気にすることじゃない」
正直なところ、瑠偉はこうなることをある程度予想していた。一体どんな修行を始めたのかはわからないが、雨宮浸がこの先この町で戦える道理はない。
准は言葉を間違えたのかも知れないが、事実は事実だ。
ただそれでも、見知った人間の死を知れば、空いた穴を塞ぐのには時間がかかる。
「……まずは和葉ちゃん達のケアだな。今日はなるべくはやく切り上げられると良いんだけど」
暗雲を見上げると、小さな滴が額に落ちた。
***
雨宮浸が死んだ。
その事実は、事務所にいた三人全員の心を滅茶苦茶にかき乱す。
一体何を言えば良いのか、何を話せば良いのか、どうすれば良いのかもわからないまま三人は黙り込む。
唐突過ぎて実感もない。涙を流すタイミングさえ、わからないままでいた。
そんな中、絆菜は立ち上がると事務所の固定電話の元へ向かっていく。
「……どこにかけんのよ」
「決まっているだろう。城谷にだ」
「意味ないことすんな」
吐き捨てるように露子がそう言うと、肩をいからせた絆菜が早足で露子に詰め寄る。
「浸が死ぬわけがない。私の目と耳で確かめるまでは信じない」
「じゃあ確かめに行って来なさいよ! でもね、和葉も城谷さんもそんなつまんない嘘つかないわよ!」
「……わかってるさ」
呟くような声音と共に、絆菜は膝を折る。そのまま崩れ落ちて、もう顔を上げなくなった。
「……そんなこと……わかってる……」
「あたしだって……信じられないわよ……」
誰一人として、まともな思考を続けることが出来なかった。
感情の振り方がわからない。ただ衝撃だけが強すぎて、心が凍りつきそうになっている。これが少しずつ溶けて、少しずつ理解して……。その先のことは誰も考えたくなかった。
いっそこのまま完全に凍りついて、何の感情も抱けなくなってしまえば良いとさえ思えた。
呆然としたまま時間が過ぎていき、何も出来ないまま午前が終わっていく。
しかし静寂を破るように、再び電話が鳴った。
「……出ます」
ずっと黙り込んでいた和葉が、スッと立ち上がって電話を取りに行く。
「……はい。はい……。ええ、わかりました。詳しい話は後ほど。ええ、大丈夫です。いつでもお越しください」
淡々と事務的な対応をし、和葉は電話を切る。
「依頼です」
和葉がそう言った時、露子も絆菜も驚きを隠せなかった。
「……受けたの?」
「はい」
静かにそう答える和葉を見て、露子はいたたまれない気持ちになる。本当に、凍りついてしまっているように見えたからだ。
「無理しなくて良いのよ。折角業務提携してるんだから、こういう時くらい番匠屋の奴に任せれば良いじゃない」
「……そうだ。和葉先輩は少し休んだ方が良い。まだ怪我も治りきって――」
「嫌です」
だが和葉は、絆菜の言葉を遮るようにしてそう答える。
「依頼は受けます。だってうちにきた依頼ですから、うちで受けます」
「ちょっと和葉!」
「……だって、もういないんですよ」
震える声を、和葉は必死に抑え込む。
「浸さん……もういないんです、帰って来ないんです」
「和葉……」
「だから、ここは! この町は! 私達で守らなきゃいけないんです!」
泣き叫ぶような言葉だった。
大切なものを喪って、折れかけた心を支えるために和葉は決意を選んだ。彼女の代わりに戦って、踏ん張って、そうすることでなんとか立っていようとしている。
「私、戦います……浸さんの分まで」
爪が刺さりそうなくらい拳を握りしめて、和葉は涙をこらえてそう言った。
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