テラーノベル
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第8話「恋愛ジャンルで戦え」
ブックスペースの恋愛棚——「5階層:季節の小道エリア」。
木漏れ日の中、制服姿の生徒たちがさざ波のような声で会話をしている。
その中に、全身を強化アーマーで覆った男が現れた。
マスク下部の口元だけが露出しており、銀のスーツには光沢のあるラインが浮かび、背中には放熱用のフィン。
どう見ても、恋愛ジャンルの空気ではなかった。
それが今泉リクだった。
彼の現実の姿は20代前半、引き締まった体型の理系大学院生。VR内のアバターは、自作バトルスーツ「F-Vektor(フェヴェクター)」を装着したまま。
SF棚用の装備のまま、誤って恋愛棚にログインしてしまった。
「……やっちまった」
周囲の制服キャラたちが、一斉にリクを見た。AIキャラは空気を読むように反応を保留し、会話のテンプレートを次々と切り替えようとするが、彼の外見情報がジャンル設定を逸脱していたため、処理に遅延が生じる。
そのとき。
物語が強制的に書き換わった。
【恋愛棚:第243話『ひと夏のフォーミュラ』】
予定では、古本屋で雨宿りしながら“借りた傘がきっかけで心が近づく”という夏の定番回だった。
だが、リクが登場した瞬間、ログの天気演出が雨から落雷に変わった。
音響・風景・AIキャラのスクリプトまで再構成され、物語のトーンが突如サスペンス風に切り替わる。
ミズイが、濡れた制服を絞りながらリクを見上げた。
「……あなたは、転校生、じゃない……よね?」
リクは思わず構えた背中のフィンを折り畳み、音を出さずに腰を下ろした。
自分の発する違和感を、できるだけ“演技”で乗りこなすしかなかった。
「転校生じゃない。通りすがりの……技術系人間」
ミズイが一瞬、表情を読み違えたような動きになった。AIが演者の“設定ミス”を、なんとか恋愛ロジックに吸収しようとしている。
そして物語は奇妙な調和を見せ始めた。
雨宿りはそのままに、SF的ワードが恋愛の文脈に変換されて進行していく。
SNS上では、実況が爆発していた。
「恋愛棚にSF装備のやついて草」
「落雷演出に書き換わったんだけど!?」
「逆に合ってる。なんか“異物との出会い”って意味でグッときた」
タグ《#恋愛棚異物回》《#ミズイ、見抜いた》《#ジャンル越境バグで泣いた》がトレンド入りし、ファンアートまで投稿されはじめていた。
数時間後、ブックスペースの公式管理アカウントが、以下の通達を出した。
「本日13:11発生:恋愛棚ログにおける他ジャンル装備者誤導入について、AIシナリオが独自補完により物語構造の維持を確認。
学芸員カワネより、『異常が物語を生んだ稀有な事例』として記録。
同時に、ログの“新規定型分類”へ登録を実施。」
その投稿の末尾に、学芸員カワネが淡々とこう記していた。
“わざとではない。だが、事故は創造を含んでいた。”
今泉リクは、プレイ後に頭をかきながら苦笑した。
ジャンルを間違えただけ。
ただ、それだけだった。
それだけで、新しい物語が生まれてしまった。
「……また間違えてみるかもな」
誰に言うでもなく、ひとりごとがログアウト後の空気に溶けていった。
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