夜の任務。
廃ビルの屋上から、ひとつ下の階層へロープで降りた直後のことだった。
「……まずい」
翠が低く呟く。
すぐ後ろにいた栞が、思わず身を固くする。
「何か……あった?」
「予想より早い。巡回ルート、変更されてる。こっちに向かってきてる」
「えっ……!」
銃を構える暇もない。
通気口も、隠れる壁もない。
焦燥が走ったそのとき──
「来い!」
ぐっと手首を引かれ、栞はあっという間に隅の配管室に引きずり込まれた。
「え、ちょ、ちょっと、翠さん!? 狭っ、えっ、うそ……っ」
ガタン、と扉が閉じられた。
わずか一畳ほどのスペース。
暗い。密閉。息をするたびに互いの体温がぶつかる。
身体と身体がぴたりと密着していて、腕の位置すら自由にならない。
「し……静かに。足音、近い」
「~~~っ!」
栞は口を押さえた。
緊張で頭が真っ白になる。
(近い、近い近い近い! 距離、ゼロ!?)
耳元で翠の呼吸が聞こえる。
手は腰にまわされ、完全に抱き込まれていた。
(これ、完全に、恋人の……いや、違う! 任務、任務中だから!)
「……動くな。気づかれる」
「動いてませんってばぁ……っ!」
耳元で、翠が小さく笑った。
低くて、くすぐるような声。
「なに笑って……っ」
「お前、鼓動がうるさい」
「そ、それは! こんな至近距離で! 翠さんが! その! だから!」
「“その”ってなんだよ」
「……意地悪……!」
栞はうつむいたまま、背中を壁に押しつける。
けれど、逃げ場はない。
目をそらせばそらすほど、距離の近さが意識に迫ってくる。
そして、突然。
──トン。
額が、そっと額に触れた。
「え……?」
「落ち着け。深呼吸しろ。お前、いま過呼吸寸前だ」
「え、あ……え、はい……」
翠はそっと栞の肩を包み込むようにして、ゆっくり呼吸を合わせた。
「吸って……吐いて……。……そう。いい子だ」
(い、いい子って……!)
耳まで真っ赤になりながらも、栞は必死に呼吸を整える。
やがて、外の足音が遠ざかっていった。
「……行ったな。よし、出るぞ」
「は、はいっ……!」
ドアをそっと開けると、廊下にはもう誰もいない。
無事にやり過ごしたようだった。
しかし──
「あーっ! ダメダメ! あんな距離、絶対ダメ! 心臓に悪い! 死ぬ!」
ビルの屋上に戻った後、栞は一人ぐるぐる歩きながら叫んでいた。
「……だったら次から一人で逃げろ」
「ムリです!!!」
「だろ?」
「……っ! 確信犯だ……!」
翠はポケットに手を突っ込みながら、いつもの無表情を崩すことなく、ぽつりと一言。
「……まあ、お前が無事でよかった」
その言葉に、心臓がまた跳ねた。
「そ、そういうの、やめてください……。距離ゼロより破壊力ある……」
「今のは本心だからセーフだろ」
「もっとアウトです……!!」
***
帰り道。
「……ねえ、翠さん」
「ん」
「任務中じゃなかったら……ああいうの、避けてくれます?」
「なんでだ」
「だって……動悸が止まらないっていうか、なんか変になるんです」
「……」
しばらく黙っていた翠が、ふと夜空を見上げて言った。
「任務中じゃなくても……お前が“触れていい”って言ったら、俺はたぶん触れる」
「──!」
「でも、そういうのは、お前が“望んだときだけ”だ」
「…………バカ……」
栞はぽつりと呟き、顔を真っ赤にしながらそっぽを向いた。
“接近戦距離ゼロ”。
あれは単なる偶然だったはずだ。
けれど。
あのとき感じた温度と、鼓動の重なりは──
間違いなく、本物だった。