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白が言う家とは、森の奥にあるかつて寺であろう建物だった。屋根には大きな穴が開き、床は歪み、雨のせいでかび臭い、到底人が住むような場所ではない。しかし白はここが家だと、私に説明した。
「こっちの部屋は濡れていないはずだから、ここで休むといい。ごめんね、布団がないんだ。これを枕にして。ごめんね」
通された部屋は確かに濡れてはないが、空気が湿っていた。5畳半だろうか、私たち子どもには十分な広さだった。畳はどこもかしこも痛んでおり、歩くたびにギシギシと音を立てた。ここが家か。家と到底呼べない廃虚。白はここで1人で住んでいるのか。
「薬もないんだ。でも雨に濡れるよりはましだろう?ゆっくり休むといい。私は隣の部屋にいるから、何かあったらすぐに呼んでね」
白は優しい声色で私に言った。未だ傘を外さず、その顔は少しも見えやしない。私はクナイを白へ向けた。精一杯の抵抗だった。白は、そんな私に向かい合って黙り込んだ。白は動かない。きっと、動けないのではない。白は人間ではない。そして、私が敵わない相手であると、本能で察していた。小さい男の子がゆっくりと床に寝かされる。ゆっくりと、まるで我が子のように。
「刺してもいいよ。君がそうしたいなら」
「お前は何ものだ」
「私は鬼だよ」
さらりと正体を明かした。私は呆気に取られ口を開く。力が抜けるほど、あっさりと。目の前には白い鬼。幽霊でも妖怪でもなく、奴は鬼なのだ。私はクナイを握る手に力を込めた。
「無駄だよ。私は不老不死なんだ。かわいそうなことに、死ねないんだよ。痛みはあるけどね」
ふろうふし、フロウフシ、不老不死。何を言っているのだ。何を馬鹿げたことを。首を切られて死なぬ奴がどこにいるのだ。
「嘘を吐け。早くそいつから離れろ。さもなくば殺す」
「だから死ねないんだって」
鬼は諦めたような口調でそう言った。悲しみと苛つきの真ん中で、鬼は溜め息をついた。
「とにかく、今はここにいるのが得策だと思うよ。気を失っている男の子を連れて夜の森を歩くよりは、まだ良いだろう」
鬼の言っていることは正論に近かった。しかしそれは私が鬼を信じてからの話だ。私はまだ奴に対して警戒を解くつもりはない。影はいつも独りだ。独りで生きていけるように影子は育てられる。私も父に教わった。簡単に人を信じるな。自分だけを信じろと。
「君は臆病だね」
鬼は私を憐れんだ。鬼は首を下へ傾ける。パサリと砂よけ布が重力に従い動いた。しかし顔は見えない。鬼は、私を、憐れんだ。この私を。影子として優秀な、この私を、臆病だと言い放った。顔を見せず、人里離れた森の中に住む鬼と、どちらが臆病だろうか。私は口調を強め、鬼を批判した。私は右足を後ろに、左足で軋む畳を強く蹴った。殺してやる。
鬼は私のクナイを簡単に受け入れた。クナイを通じて皮膚を貫通した感触、そして温かい血が手に触れた。真っ直ぐにクナイが刺さった鬼の腹。鬼のくせに血が赤い。鬼のくせに温かい。まるで人間のようだ。しかし鬼は自分は不老不死だと言った。ならこの行為は無駄に終わると、どこかでわかっていた。
「痛い」
鬼は静かに言葉を溢した。
「痛い、痛い、痛い」
鬼は泣いた。ぽたぽたと、涙が私の手に降ってくる。涙と血で薄まったそれは、形容しがたい悲しさがあった。鬼の目に涙とはよく言ったものだ。こいつは二言目には謝る、そして泣く。鬼にしては優しく、まるで白い蛇のような、神々しく尊い生き物だと、思ってしまった。
「クナイを抜いてくれ、すぐに再生するから、見てるといい」
鬼はそう言って、私は素直にクナイを抜いた。すると途端、開いていた腹の穴がじわじわと元通りになっていく。私は目を見開いて、その信じられない現象をただただ見つめていた。
「ほら、見たでしょう?私は不死なんだ。死ねないんだよ。だからほら、わかったなら、ここで朝を待つといいよ」
ふらり、ふらり、鬼は静かに部屋を出ていく。後ろ手で襖を閉めれば私と男の子2人きりになった。雨はまだ降っている。地面は緩み、雫を受け入れ跡を残した。私はゆっくりと膝をつく。不老不死なんて、幾人が望むことだろう。まるで夢のようじゃないか。誰もが羨むことじゃないか。しかし鬼は、死ねないと言った。悲しそうに呟いた。もはや諦めたようにも思えるその言い方は、何故なのか。膝に置いた両の手を見た。先ほどまであった薄い血が、今は透明の水となっていた。クナイにすら、血の痕跡はない。鬼は何故泣いたのだ。痛みだけではないことを、私は察していた。もっと複雑な、鬼にとっては残酷な、涙だったのだ。痛い、痛い。痛い。
鬼の言う通りに、朝を迎えた。
雨はとっくに止んでいて、キラキラとした森が穴の空いた壁から見える。清々しい朝だった。
「…」
湿っている服の上から傷を撫でる。昨夜のこと、はっきりと覚えていた。隣で寝ている男の子はまだ起きそうにもない。クナイを拾い、部屋を出た。なるほど、私達がいた部屋はまだマシな方で、隣の部屋からその向こうの部屋まで見える大きな穴が空いていた。天井から光が差し込んでいる。畳は腐り、ところどころキノコやら植物やらがカビのように生えている。廃墟だ。改めてそう思う。何年も人が住んでいないのだろう。忘れ去られた森の廃墟に、鬼はいたのだ。
「おはよう」
澄んだ声がした。私は振り向きじっと目を見つめる。
「もう1人の子は?」
首を少し傾けて私に言った。さらりと、長い髪がわずかに揺れる。初めて、顔を見た。鬼の、顔。それはあまりにも鬼とは形容し難い、美しい顔をしていた。森の光を浴びるその姿は、とても優しい。胸あたりまでの髪を結い、高い位置に纏めた鬼は、悪戯な笑みを浮かべてこう言った。
「顔、隠すの忘れてしまった。これは秘密だよ。鬼の顔なんて、みんな見たくもないだろう」
ごめんね、鬼はまた謝った。そんなことない。瞬時に思った言葉だ。口には出せなかった。
「よしこれでいいね。男の子の様子を見よう。風邪をひいてなければいいのだが」
「なあ」
鬼は私を抜いて歩き出した。私は鬼を呼び止める。
「鬼も泣くのか」
静かに振り返る。
「泣くよ」
顔は砂よけの中。けれどなんとなく、鬼の表情が読めた。また静かに歩き出す。ふらり、ふらり。揺れる背中は私たちと同じ温かいのだろう。
村へ戻った私たちを、村の大人たちが出迎えた。怒る者も居ればホッと胸を撫で下す者。泣く者。そして気づくのだ。1人足りない。腕っ節の強かった男の子。村で一番小さい男の子はこう言った。
「白い妖怪に殺された」
やめろ、私の言葉は届かなかった。
そんなことを言えば、
大人たちは必ず、
あの鬼を探し出すだろう。
そして。
私は父の顔を見た。影の父。人殺しの男。
父は無表情だった。だが私にはわかる。あれは喜んでいる。見つけた。そんな声が聞こえた気がした。