扉がゆっくり開いた。
朝の光が差し込み、
空気が少しだけ揺れた──
その揺れに紛れるように、彼は立っていた。
昨日と同じ姿。
同じ髪の乱れ方。
同じ、どこか寂しげな微笑。
『……おはよう』
たしかに聞こえた。
昨日と変わらない、あの優しい声で。
「……うそ……」
先生がすぐそばにいるのに、
私には彼が、はっきり見えていた。
けれど──先生の視線は、
彼ではなく私だけを見ていた。
「……君、大丈夫?」
先生の声は穏やかなのに、
不自然なくらい静かだった。
まるで、何かを確かめるように。
「……先生には……見えないんですか?
そこに……彼が……」
震える指で、彼のいる方向を指す。
先生は一瞬だけ目を伏せ、
深く息をついた。
「……やっぱり、見えてるんだね。」
「え……?」
『聞かなくていい。』
彼が小さく首を振る。
けれど私は目をそらせなかった。
涙でにじむ彼の姿を、
もう見失いたくなかった。
「先生……知ってるんですよね。
彼が……どうして私の前に“いる”のか。」
先生は花瓶のワスレナグサに指先をそっと触れた。
その仕草が、まるで祈るようで胸がざわつく。
「……君が交通事故に遭った時、
彼は君の名前を呼びながら抱きしめていた。
……彼は、最後の瞬間も君を離さなかったんだ。」
空気が凍りついた。
『言わなくていいって……先生。』
彼の声が震える。
だが先生は続ける。
「だからだよ。
あまりに強く君を想ったから……
“この病室”から離れられていないんだ。」
息が止まる。
幽霊なんて信じたことなかった。
でも、今目の前にいる彼は──
優しくて、悲しくて、
あまりに“生きている”ようで。
「……そんな……」
私は涙を拭う暇もなく、彼に歩み寄った。
「なんで……なんで言ってくれなかったの……」
『言えるわけないだろ……』
彼は悲しげに微笑む。
『お前の泣く顔……見たくなかった。
せっかく記憶……戻ってきてくれてたのに。
また苦しませたくなかったんだよ。』
その声は、昨日よりも、遠く聞こえた。
「……戻ってきてた?」
先生が、意味深に私を見つめる。
「君の”昨日の記憶”はね、
事故の前日と混ざっているんだ。」
「……どういう……」
『もういい、先生。俺が言う。』
彼が優しく遮る。
『……お前は昨日、ちゃんと思い出してた。
俺が……いないってことも、
俺が毎日花を置いてた理由も……全部。』
胸に鋭い痛みが走る。
「じゃあ……どうして……」
『泣きながら言ったんだ。
”もう一度、会いたい”って。』
病室の静寂が、痛いほど重くなった。
『だから……俺は来たんだよ。
お前が望んだから、ここに。
……でも、今日が最後だ。』
「やだっ、…!
やっと会えたのに……!」
彼はそっと近づき、
私の頬に触れようと手を伸ばした。
けれど──
指先は空気に溶けるように透けていた。
『……ごめんな。
もう、触れられないみたいだ。』
その言い方が、まるで“終わり”の宣告で。
涙が止まらなかった。
先生は静かに目を伏せて言った。
「彼がいられる時間は、
君が“忘れたくない”と思っていたあいだだけだよ。」
私は泣きながら首を振る。
「忘れたくなんて……ない……っ」
『でもな。』
彼は穏やかに微笑んだ。
『お前が生きられなくなる。
俺のことばっかり抱えてたら。
それだけは……嫌だ。
……だから、最後の花言葉なんだ。』
私は花瓶を見る。
今日の花──
透明な白に近い、静かな青い花。
花言葉を調べる前に、
彼がそっと言った。
『“あなたの未来に幸あれ”。
……俺がお前に贈る、最後の意味だ。』
心臓がぎゅっと握りつぶされたみたいだ。
「……行かないで……」
『……ありがとな。
俺を……ずっと想ってくれて。
……でも、もう大丈夫だよな。』
「だめ……だよ……」
彼は消え入りそうな声で呟いた。
『お前の笑顔……もう一度見れたから。
それだけで十分なんだ。』
光が揺れた。
風もないのにカーテンがふわりと揺れた。
彼の姿が、少しずつ薄くなっていく。
「待って……待ってよ……!」
『大好きだよ。
……これからは、お前が幸せになる番だ。』
伸ばした手は、触れられない。
最後に彼は、
とても優しい“恋人の顔”で笑った。
『……おやすみ。』
光が、やわらかく消えていった。
病室には、
私の嗚咽と、花瓶の花の香りだけが残った。
先生は静かに肩を支えてくれた。
「……君は、生きるんだよ。」
私は涙を流しながら、小さく頷いた。
──そしてその日から、
花瓶に花が置かれることはなくなった。
だけど、私は毎朝、
ワスレナグサをひとつだけ買うようになった。
“忘れないため”ではなく、
“ありがとう”を伝えるために。
恋人が残した最後の花言葉を抱いて、
私は少しずつ前を向いて歩き始めた。
コメント
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きゃぁぁぁぁぁ🤦🏻♀️💖 ありがとうを伝えたいって最高すぎる😿💓 私も白羽ちゃんにこんな最高な小説を書いてくれてありがとうって伝えたい