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4 - 愛別苦離

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2025年11月29日

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『愛別苦離』






俺は、名前も知らないあの子に恋をしている。




『していた』



と言うべきなのかもしれないが、

それでもこの胸の奥では、

いつだって現在進行形のままだ。



昔から、窓辺に座り、

ただ外の景色を眺めるのが好きだった。


夕方の風が揺らす木々の音も、

下を歩く人の流れも、

すべてが遠い世界の出来事のようで、

安心して見ていられた。




そんな世界の中で、

ひとりだけ特別な光を放つ子がいた。





部活帰りなのだろう。


友達と笑い合いながら、

肩を弾ませて歩いてくる。


あの子だけは、

いつも俺をこの世に引き戻してくれた。




「あ、今日も来たんだ……」




胸が熱くなるのは、毎回のことだ。

けれど、

あの子にとって俺は窓の影に過ぎない。


見えるはずもない存在――本来ならば。




数日後。


また窓から下を覗いたとき、あの子がいた。



長い睫毛の影が揺れるその横顔を、

思わず見惚れてしまった瞬間――



あの子はゆっくり上を向いた。



目が合った。
確かに、触れたのだ。

まるで透明な糸で結ばれたみたいに。



けれど、

あの子はすぐに前を向き、歩き出した。



きっと俺の勘違いだ。

そう思い込もうとした。

本当は胸が震えるほど嬉しかったのに。




そして、運命は静かに狂い始めた。


またあの子を見つけた日。

家の前に差し掛かったあの子は、

ふいに足を止めた。

そして――ゆっくりと、こちらを見上げた。



「あの……そこで何してるんですか?」



声が、届いた。

俺は思わず固まった。



これは俺に向けられた言葉なのか。

いや、そんなはずは――。




「俺の、こと……ですか?」




「え、あ……はい」



世界が揺れた。

だって俺は――








三年前、もうこの世を去っているのだから。








高三の夏。


青信号を渡った瞬間、

耳元で悲鳴のようなブレーキ音が弾けた。


視界が倒れ、

頬にアスファルトの冷たさが触れた。



最後に見たのは、

どこまでも青い夏空だった。



その美しさだけを胸に抱いたまま、

俺は息を引き取った。



だから誰にも俺の姿が見えない。



触れられない。


届かない。



なのに――




あの子だけが、俺を見た。



俺を、見つけてくれた。




「空、好きなんですか?」




あの子は、

光を纏ったみたいに柔らかく笑った。




「……好きですよ」




「ですよね〜! 私も空好きなんです。ずっと見てられますよね」




その笑顔が胸に溶けていくのを感じた。



“見える”という奇跡より、



共通点があったことが嬉しかった。



それからというもの、

あの子が通るたびに、

二階の窓と地上で会話が続いた。






花火大会にも行った。



周りの人には、

あの子がひとりで喋っているようにしか

見えない。



人々の冷たい視線が刺さるたび、

俺は胸が痛んだ。




「……俺、見えないんだよ。他の人には。関わって、大丈夫か?」




弱さをさらすのは怖かった。


それでもあの子は迷いなく言った。




「大丈夫だよ。私だけに見えるなんて、特別じゃん。
 私は、貴方といるだけで幸せだよ?」








……俺は、その言葉に救われた。






だが、幸せは長く続かなかった。



ある日を境に、

あの子は家の前に来なくなった。



呼んでも、探しても、届かない。



星 を見上げて泣いた夜もあった。


幽霊にも、涙はあるらしい。








探し続けるうちに、五年が過ぎた。


あの子は親の都合で海外へ移り、

そして――








結婚したらしいと風の噂で聞いた。


胸が裂けるように痛かった。



幽霊でも、失恋はするんだな。




それでも俺は、

あの子の幸せを願って空を見上げるしかなかった。







そして、奇跡がまた訪れた。

ある日、

下を見た瞬間――





五年前と変わらないあの子がいた。




「久しぶり!」




思わず声を上げた 。


でも、あの子は振り向かなかった。

もう俺は見えていない。



傍らには外国人の旦那。


小さな手を握る幼い子供。



世界が静かに遠ざかるような気がした。


それから二日後。


俺が死んだ横断歩道に、

救急車と人だかりが集まっていた。

倒れていたのは――




あの子だった。


胸が潰れると思った。


病院。


105号室。

弱々しい呼吸で眠るあの子。



その手を握り涙をこぼす旦那。




「このままだと……今夜が山でしょう」




医師の言葉が、静かに落ちた。

俺は知っている。



愛する人を突然失う痛みを。


未来が途切れる絶望を。




だからこそ、

もう誰にもその痛みを味わってほしくなかった。



俺は、決心した。



この世で死んだ俺には、

もう一度“死ぬ”機会がある。



心臓だけがまだ温かい。



あの子を救えるなら、それでいい。





たとえ、もう俺が見えなくても。






俺は、自分の胸に手を当てた。



心臓は“幽霊の形”なのに、

なぜかまだ鼓動を持っていた。


あの子を想い続けていた、たったひとつの証。




「……これで、いい。幸せになってくれ」




音もなく、心臓が光になって溶けていく。



あの子の胸に、吸い込まれるように――。



すると、かすかな息が戻った。




目を開けたあの子を、

家族が泣きながら抱きしめる。



その光景を見て、俺は静かに笑った。




『……さようなら。どうか、幸せに。
俺の心臓が、君を生かせるなら――それだけでいい』




夕陽が差し込み、

視界が白く滲む。




音も、

痛みも、

もうなかった。




こうして、 俺は二度目の死を迎えた。

愛した人を救うための、 静かな最期だった。


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