『愛別苦離』
俺は、名前も知らないあの子に恋をしている。
『していた』
と言うべきなのかもしれないが、
それでもこの胸の奥では、
いつだって現在進行形のままだ。
昔から、窓辺に座り、
ただ外の景色を眺めるのが好きだった。
夕方の風が揺らす木々の音も、
下を歩く人の流れも、
すべてが遠い世界の出来事のようで、
安心して見ていられた。
そんな世界の中で、
ひとりだけ特別な光を放つ子がいた。
部活帰りなのだろう。
友達と笑い合いながら、
肩を弾ませて歩いてくる。
あの子だけは、
いつも俺をこの世に引き戻してくれた。
「あ、今日も来たんだ……」
胸が熱くなるのは、毎回のことだ。
けれど、
あの子にとって俺は窓の影に過ぎない。
見えるはずもない存在――本来ならば。
数日後。
また窓から下を覗いたとき、あの子がいた。
長い睫毛の影が揺れるその横顔を、
思わず見惚れてしまった瞬間――
あの子はゆっくり上を向いた。
目が合った。
確かに、触れたのだ。
まるで透明な糸で結ばれたみたいに。
けれど、
あの子はすぐに前を向き、歩き出した。
きっと俺の勘違いだ。
そう思い込もうとした。
本当は胸が震えるほど嬉しかったのに。
そして、運命は静かに狂い始めた。
またあの子を見つけた日。
家の前に差し掛かったあの子は、
ふいに足を止めた。
そして――ゆっくりと、こちらを見上げた。
「あの……そこで何してるんですか?」
声が、届いた。
俺は思わず固まった。
これは俺に向けられた言葉なのか。
いや、そんなはずは――。
「俺の、こと……ですか?」
「え、あ……はい」
世界が揺れた。
だって俺は――
三年前、もうこの世を去っているのだから。
高三の夏。
青信号を渡った瞬間、
耳元で悲鳴のようなブレーキ音が弾けた。
視界が倒れ、
頬にアスファルトの冷たさが触れた。
最後に見たのは、
どこまでも青い夏空だった。
その美しさだけを胸に抱いたまま、
俺は息を引き取った。
だから誰にも俺の姿が見えない。
触れられない。
届かない。
なのに――
あの子だけが、俺を見た。
俺を、見つけてくれた。
「空、好きなんですか?」
あの子は、
光を纏ったみたいに柔らかく笑った。
「……好きですよ」
「ですよね〜! 私も空好きなんです。ずっと見てられますよね」
その笑顔が胸に溶けていくのを感じた。
“見える”という奇跡より、
共通点があったことが嬉しかった。
それからというもの、
あの子が通るたびに、
二階の窓と地上で会話が続いた。
花火大会にも行った。
周りの人には、
あの子がひとりで喋っているようにしか
見えない。
人々の冷たい視線が刺さるたび、
俺は胸が痛んだ。
「……俺、見えないんだよ。他の人には。関わって、大丈夫か?」
弱さをさらすのは怖かった。
それでもあの子は迷いなく言った。
「大丈夫だよ。私だけに見えるなんて、特別じゃん。
私は、貴方といるだけで幸せだよ?」
……俺は、その言葉に救われた。
だが、幸せは長く続かなかった。
ある日を境に、
あの子は家の前に来なくなった。
呼んでも、探しても、届かない。
星 を見上げて泣いた夜もあった。
幽霊にも、涙はあるらしい。
探し続けるうちに、五年が過ぎた。
あの子は親の都合で海外へ移り、
そして――
結婚したらしいと風の噂で聞いた。
胸が裂けるように痛かった。
幽霊でも、失恋はするんだな。
それでも俺は、
あの子の幸せを願って空を見上げるしかなかった。
そして、奇跡がまた訪れた。
ある日、
下を見た瞬間――
五年前と変わらないあの子がいた。
「久しぶり!」
思わず声を上げた 。
でも、あの子は振り向かなかった。
もう俺は見えていない。
傍らには外国人の旦那。
小さな手を握る幼い子供。
世界が静かに遠ざかるような気がした。
それから二日後。
俺が死んだ横断歩道に、
救急車と人だかりが集まっていた。
倒れていたのは――
あの子だった。
胸が潰れると思った。
病院。
105号室。
弱々しい呼吸で眠るあの子。
その手を握り涙をこぼす旦那。
「このままだと……今夜が山でしょう」
医師の言葉が、静かに落ちた。
俺は知っている。
愛する人を突然失う痛みを。
未来が途切れる絶望を。
だからこそ、
もう誰にもその痛みを味わってほしくなかった。
俺は、決心した。
この世で死んだ俺には、
もう一度“死ぬ”機会がある。
心臓だけがまだ温かい。
あの子を救えるなら、それでいい。
たとえ、もう俺が見えなくても。
俺は、自分の胸に手を当てた。
心臓は“幽霊の形”なのに、
なぜかまだ鼓動を持っていた。
あの子を想い続けていた、たったひとつの証。
「……これで、いい。幸せになってくれ」
音もなく、心臓が光になって溶けていく。
あの子の胸に、吸い込まれるように――。
すると、かすかな息が戻った。
目を開けたあの子を、
家族が泣きながら抱きしめる。
その光景を見て、俺は静かに笑った。
『……さようなら。どうか、幸せに。
俺の心臓が、君を生かせるなら――それだけでいい』
夕陽が差し込み、
視界が白く滲む。
音も、
痛みも、
もうなかった。
こうして、 俺は二度目の死を迎えた。
愛した人を救うための、 静かな最期だった。
コメント
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え待ってやばい雰囲気も言葉遣いもストーリー性も全部どタイプすぎるんだけど
誰か自分の涙腺知らない??消えたんよ