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振り返ると若菜が寝返りを打ったところで、その目がゆっくりと開いた。
一瞬ここがどこかわからなかったのだろう。
何度か瞬きをした後、状況を思い出したらしく、慌てて布団を引き上げる。
慌てたその仕草がおかしくて、俺も照れくさくなって、ふっと声に出して笑ってしまった。
「起きた?」
「……うん」
「水飲む?」
頬を染めて頷く若菜を見て、俺も照れ隠しに水を渡した。
「ありがとう」
受け取った若菜はやっぱり恥ずかしそうで、こんな若菜を見るのは貴重だから、つい見てしまう。
「えっと……。服着るから、ちょっと向こう向いていてくれる?」
「あぁ」
じろじろ見すぎたか、と急いで飲み終わったコップを受け取り、背を向ける。
そのまま洗っていると、若菜が動く気配がした。
(朝食でも用意するか)
パンはあったかな、と考えかけたところで、「あっ」と声がする。
「湊。会社からメール来てた」
「え?」
「今日お客さんと打ち合わせがあったんだけど、私が昨日退社してから、先方からリスケしたいって連絡あったんだって。だから今日、休んでいいって!」
「まじで?」
「やったー!」
明るい声が聞こえ、すこし待って後ろを振り向くと、満面の笑顔で嬉しそうにしていた。
「そうなんだ。俺も休みにならねーかなー」
俺もスマホを見たが、当たり前だけど休みの連絡なんてきていない。
「湊は仕事だよね。じゃあ私、今日は湊のところにごはん食べに行って帰ろうかな」
「え?」
「こっちで湊が働いているとこ見たかったんだよね。ちゃんとしてるのか気になってたし」
たしかに、これまではランチを食べに来て俺の働いているところを見ていたから、若菜としては新しい俺の職場に興味があるのだろう。
「わかった。じゃあそうするか」
「うん」
笑う若菜につられ、俺にも笑顔が浮かぶ。
「朝めし食う? なんか作ろうか」
「ううん、お昼はお腹いっぱい食べたいから」
「じゃあ、出勤したら気合い入れて作らなきゃな」
「楽しみー!」
無邪気な若菜を見ながら、密かに気合いが入る。
俺が料理をするようになった原点は若菜だ。
若菜においしいって言って食べてほしくて料理を始めたのだと、改めて思い出す。
(今日の日替わり、なんだったかな)
考えていると、突然若菜がくすくす笑いだした。
「なんか、変な感じ。湊と朝からふたりって初めてだね」
「そういえばそうだな」
「これからも、時々泊まりにきてもいい?」
顔をあげてこちらを見る若菜は、化粧もしていないのに、ドキッとするほどきれいに見える。
この雰囲気と朝の光のせいもあるが、たぶん俺が若菜に対して愛おしいと思いすぎているせいだ。
「もちろん。でも、その前におじさんたちに挨拶しに行かなきゃな」
ずっと一緒にいたいと思っているから、おじさんたちに不安に思われるような付き合いはしたくない。
まずは公認の仲を目指したいと伝えると、若菜は俺を見つめて、照れくさそうに言った。
「湊。私、湊といつか一緒に暮らしたい」
「――――」
「具体的にいつとか考えてるわけじゃないけど、そうなりたい。……湊は?」
ここまで来て、若菜を手放すつもりなんてあるわけがない。
「俺も、そう思ってるよ」
真剣に答えると、若菜は表情を緩めてふっと笑った。
「さっき、夢見たの。……昔、湊に『30歳になってもお互いひとりだったら結婚しよう』って言った時の夢」
「―――――」
「夢だから、実際あったこととはすこし違ったけど、でもだいたい一緒だった。夢の中で、私は湊を意識してて、でも湊はなに考えてるのかわからなくて。……でも、今ならわかる」
若菜は俺を見て、いたずらっぽく笑った。
「湊も私のこと好きだったんでしょ?」
突然の攻撃に、言葉が出てこない。
頬が熱くなって、視線が泳ぎそうになる。
それを聞く時点で確信犯だ。
若菜は俺が「イエス」以外の答えを持ち合わせていないのを知っている。
その証拠に、言葉の詰まる俺がおかしいのか、若菜はくすくす笑ったままだ。
「……さぁ、どうだろうな」
「ずっと好きだって言ってくれたじゃん」
素直に認めるのは悔しいのに、若菜は笑いながら畳みかけてくる。
「湊はいつもわかりにくいから。ここは認めてよ」
「じゃあ」
そっちがその気なら俺も反撃だ。
若菜の腕を引っ張り、抱きしめる。
「認めるよ。ずっと好きだった。もし、若菜がほかの男と結婚したら、めっちゃ引きずった」
「―――――」
声が震えそうになる。
でも若菜が固まったから、ちょっとだけ冷静でいられた。
「なんだよ。素直になれって言ったの、若菜だろ」
「そうだけど、っ、で、でも」
「大学生の時は言えなかったけど」
気になったのか、若菜が顔をあげた。
顔を近づけ、こつん、と額を合わせる。
「なにも言わなくても、会わない間も、俺は若菜のことわかってると思ってたし、若菜も俺のことそんなふうに思ってると思ってた。……でも、そういうんじゃなくて―――幼なじみじゃない立場で傍にいたい」
若菜の目が見開く。
その瞳に映る俺は笑っていた。
笑っていて、真剣で、20歳の時とは違う自分がいる。
「俺と結婚して」
いつかだれかにプロポーズすることはあるかもしれないと思っていたけど、すこしも着飾らないまま、起きぬけの姿で言うなんて思ってもみなかった。
だけど……かっこつけたり、背伸びしたりするのは、なんとなく性に合わない。
これが今の俺の、これからも変わらない気持ちだ。
若菜の瞳が揺れる。
揺れて、細くなって、すこしだけ涙がにじむ。
「……うん」
言って若菜がぎゅっとしがみつく。
俺も同じだけの力を込めて若菜を抱きしめる。
気持ちを受け取ってもらえて、受け入れてもらえる幸せを、全身で感じられた。
幸せだ。
言葉にならないほどの幸せに溺れていると自覚する。
ずっとこのままでいたい。
きっと若菜だってそう思ってくれているだろう。
このままいたい、けど……別の現実だって待っている。
「あー。出勤したくねーな」
思わずこぼすと、若菜が一拍置いて小さく笑った。
「ほんとだね。でも、また来る。湊も休みできたら帰ってきて」
「あぁ」
「今日私が職場まで一緒に行くでしょ? ちょっとだけデートみたいだよ」
「冷やかされるの覚悟だけどな」
「いいじゃん。それは前からじゃない」
「知ってたんだ。前の職場で若菜が来ると、俺が冷やかされてたこと」
「まぁ……なんとなく」
俺があきれたように笑うと、若菜も笑う。
空気がふっと軽くなって、いつもの俺たちの距離になって。
「じゃあ、若菜の支度が終わったら一緒に行くか」
「うん」
でも、いつもみたいですこし違うんだ。
より近しくて親しみがあって、俺たちは触れたい時に触れられる距離になったから。
そのことが嬉しくて、意味もなく若菜の髪を撫でてしまうのは仕方がないことだろう?
体を離し、光を入れようとカーテンを開けた。
外は眩しく、空は青い。
「いい天気だね。なんだかお腹すいてきた」
「いっぱい食えよ。残すのは許さねーから」
「うん。私の好きなの作ってね」
笑う若菜に笑い返す。
特別でもなんでもない日だけど、ここから新しいなにかがスタートすると感じる。
若菜と笑って始まる、光に満ちた朝だった。
30歳になっても、ひとりなら ―終―