テラーノベル
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「……俺、何やってんだろ」
302号室。自分の部屋に戻った若井は、
明かりもつけずにフローリングに座り込んでいた。
昨日まで、この壁の向こうに愛しい人がいて、自分たちは特別なんだと信じて疑わなかった。
けれど、一度「拒絶」を突きつけられただけで、
この薄い壁は、万里の長城よりも高く、越えられない絶壁に見えた。
元貴さんの過去。涼ちゃんの存在。
自分が入り込めない、
音楽と絶望で塗り固められた彼らの「聖域」。
(……俺は、ただの隣人だ。
……癒やされてたのは、俺の方だけだったんだ)
ふと、部屋の隅に目をやる。
一ヶ月前、ここへ越してきた時に使った、
畳み忘れた段ボール箱が一つ。
若井は、吸い寄せられるようにその箱を引き寄せた。
「……もう一度、引っ越そうかな」
口に出してみると、
その言葉は驚くほどすんなりと心に落ちた。
ここを離れれば、深夜に聞こえてくる歌声に胸を締め付けられることもない。
涼ちゃんと笑い合う元貴さんの姿に、
醜い嫉妬を燃やす必要もなくなる。
ただの「仕事に疲れたサラリーマン」に戻れるんだ。
若井はスマホを取り出し、以前お世話になった不動産屋のサイトを開いた。
適当な物件をスクロールする。
今の部屋より広くて、新しくて、……そして、隣から歌声なんて聞こえてこない、静かな部屋。
(……それでいい。……それが、普通なんだ)
そう自分に言い聞かせながら、若井はポケットから「銀色の鍵」を取り出した。
元貴さんから預かった、301号室のスペアキー。
これをポストに返して、
管理会社に解約届を出せば、全部終わる。
けれど、鍵を見つめる若井の視界が、急激に歪んだ。
「……っ、……嫌だ」
引っ越そうなんて、嘘だ。
逃げ出したいのは、
元貴さんに嫌われるのが怖いからだ。
どんなに「闇」が深くても、どんなに「部外者」だと言われても、あの歌声を聴かない夜なんて、もう想像もできない。
若井は、広げようとした段ボールを力任せに引き裂いた。
ボロボロになった紙屑の中で、
彼は鍵を握りしめ、嗚咽を漏らした。
(……逃げない。……嫌われてもいい。
……俺は、あなたの隣にいたいんだ)
決意と未練が混ざり合った、嵐のような夜が更けていく。
コメント
2件
めっちゃ気になるぅぅぅ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!