テラーノベル
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「……逃げない。逃げるもんか」
真っ暗な部屋で、
若井は引き裂いた段ボールの
残骸の中に座り込んでいた。
昨日までの「爽やかな隣人」の顔はもうない。
光が反映しない瞳には、元貴を失うことへの恐怖と、彼を独占したいというドロりとした渇望が宿っていた。
若井は、ポケットの中で熱を持った
銀色のスペアキーを取り出す。
元貴から「顔も見たくない」と拒絶され、
返すべきはずの鍵。
けれど、今の若井にとってこれは、
彼と自分を繋ぐ唯一の命綱だった。
深夜3時。
アパートの廊下は静まり返り、
隣の301号室からも歌声は聞こえない。
若井は吸い寄せられるように自室を出た。
一歩、また一歩。
301号室のドアの前に立ち、
震える手で鍵を差し込む。
カチリ。
小さな、けれど決定的な
拒絶の壁が崩れる音がした。
若井は音を立てずに中へ入る。
シダーウッドの香りが鼻を突き、
若井の脳を麻痺させる。
(……元貴さん。……あなたは、俺を追い出した。
……でも、俺をここに招き入れたのも、あなただ)
寝室から微かな寝息が聞こえる。
若井はリビングのソファに深く腰掛けた。
明かりはつけない。暗闇の中で、元貴が眠る気配だけを感じている。
「……涼ちゃんには、できないだろ。
……こんなこと」
若井は、テーブルの上に置かれていた元貴の飲みかけのグラスを指でなぞった。
昼間の「仕事のできる若井」は死んだ。
今ここにいるのは、壁の向こう側から聞こえる呼吸音だけを糧に生きる、狂った信者だ。
ふと、玄関のチャイムが鳴った。
この時間に。
「元貴。開けて。……鍵、忘れた」
ドアの向こうから聞こえる、涼ちゃんの低い声。
若井は暗闇の中で、口角を吊り上げた。
今、この部屋の中にいるのは自分だ。
鍵を持っているのも自分だ。
若井は立ち上がり、ドアに近づいた。
けれど、開けない。
ドア一枚を隔てて、涼ちゃんの気配と対峙する。
(……涼架さん。
……あなたは『戦友』かもしれない。……でも、今、彼の隣に『侵入』しているのは、俺だ)
若井は、涼ちゃんには聞こえないほどの小さな声で、呪文のように呟いた。
「……もう、誰にも渡さない。
……この部屋も。……あの人も」
朝が来るのが怖くない。
若井の心は、元貴の「闇」を暴くのではなく、自らがその「闇」の一部になることを選んだ。
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