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羊と亀のお遊戯会
23
奏音•*¨*•.¸¸♬︎💙
10
映え無し
1
【短歌】
恋という名前をつければ簡単で名前をつけない今も好きです
【短歌をテーマにした物語】
彼とは、毎週金曜日の放課後に会う。
約束をしているわけではない。
ただ、駅前の小さな喫茶店で顔を合わせることが多くて、いつの間にか、そこが二人の居場所になっていた。
「今日も来たんだ」
私が先に席に着いていると、彼は決まってそう言う。
「そっちこそ」
「俺はここのコーヒーが好きだから」
「私もここのケーキが好きだから」
そんな会話をして、向かい合って座る。
彼はブラックコーヒーを飲み、私はミルクティーを飲む。
学校であったこと、最近見た映画のこと、駅前に新しくできた店のこと。
特別な話なんて、ほとんどしない。
それでも、彼と過ごす時間は心地よかった。
沈黙が続いても気まずくない。
無理に笑わせようとしなくても、自然に笑える。
帰り際には「またね」と言って、それぞれの家に帰る。
ただ、それだけ。
それだけなのに、私は金曜日が好きだった。
*
彼と初めて会ったのは、二年前の春だった。
大学の講義で隣の席になり、私が落としたペンを拾ってくれたのが始まりだった。
それから、課題について話すようになり、昼食を一緒に食べるようになり、帰り道が同じ日は駅まで並んで歩くようになった。
彼は私の話をよく聞いてくれた。
私が失敗して落ち込んでいるときは、無理に励まさず、隣で話を聞いてくれた。
私が嬉しいことを話すと、自分のことのように笑ってくれた。
そんな彼を、いつから好きになったのだろう。
はっきりとした瞬間は覚えていない。
気づいたときには、彼に会える日を楽しみにしていた。
彼から届く短いメッセージを、何度も読み返していた。
ほかの人と楽しそうに話す彼を見て、胸の奥が少しだけ痛くなった。
それでも、私は何も言わなかった。
彼に好きな人がいるのか、恋人がいるのか。
そんなことを聞く勇気もなかった。
聞いてしまえば、今の関係が変わってしまうかもしれないから。
私たちは、友達だった。
少なくとも、周りから見ればそうだった。
そして私自身も、彼の前では「友達」という言葉に守られていた。
*
ある金曜日、喫茶店で彼が言った。
「俺、来月から遠くに行くんだ」
ミルクティーを飲もうとしていた手が止まった。
「遠くって?」
「仕事。実家のある町に戻ることになったんだ」
「……そうなんだ」
それ以上、何も言えなかった。
彼はいつもと同じ調子で、仕事のことや引っ越しのことを話した。
私は笑って相づちを打った。
よかったね、と言った。
新しい場所でも頑張ってね、と言った。
本当は、そんなことを言いたかったわけじゃない。
行かないで。
寂しいよ。
これからも、金曜日に会いたい。
言いたい言葉はいくつもあったのに、どれも口に出せなかった。
彼が帰ったあと、私は一人で喫茶店に残った。
冷めたミルクティーを見つめながら、ようやく自分の気持ちに向き合った。
私は彼が好きだ。
友達だから一緒にいたいのではない。
話が合うから会いたいのでもない。
彼が笑うと嬉しくて、彼がいなくなると寂しい。
彼の明日にも、その先の未来にも、自分がいたらいいと思っている。
これは、きっと恋なのだ。
恋という名前をつけてしまえば、簡単だった。
好きだと伝えればいい。
返事をもらえばいい。
そうすれば、私たちの関係には、今とは違う名前がつくのかもしれない。
けれど、その名前をつけることで、今まで当たり前にあったものまで失ってしまう気がした。
毎週金曜日に会うこと。
何でもない話をすること。
帰り際に、またねと笑うこと。
私は、それがなくなるのが怖かった。
だから、最後まで言えなかった。
*
彼が引っ越す前の、最後の金曜日。
いつもの喫茶店で、私たちは向かい合って座っていた。
「来週から、ここに来ても誰もいないんだな」
彼が冗談めかして言った。
「お店の人はいるでしょ」
「そういう意味じゃないんだけど」
彼は笑った。
私も笑った。
笑いながら、胸の奥がぎゅっと苦しくなった。
「今まで、ありがとう」
彼が言った。
「お前と話す時間、俺、結構好きだったよ」
私は顔を上げた。
彼は窓の外を見ていた。
「なんかさ、特別なことをしなくても、気楽にいられるっていうか。そういう相手って、意外と少ないんだよな」
「……うん」
「向こうに行っても、たまには連絡するよ」
「うん。待ってる」
私は笑った。
きっと、これでいい。
彼にとって私は、大切な友達なのだろう。
私にとって彼は、それ以上の人だった。
それだけの違いだ。
店を出て、駅まで一緒に歩いた。
いつもの道。
いつもの夕暮れ。
いつもと同じように、彼が隣にいる。
それが今日で最後になるのだと思うと、一歩ずつ進むのが惜しかった。
駅に着くと、彼は改札の前で立ち止まった。
「じゃあ、元気で」
「うん。そっちも」
彼が手を振る。
私は手を振り返した。
彼の姿が人混みに消えていく。
その背中を見ながら、私は心の中でつぶやいた。
好きだったよ。
ずっと、好きだった。
友達という名前では足りないくらいに。
でも、その気持ちに別の名前をつけることは、最後までできなかった。
*
彼がいなくなってから、金曜日は少し長くなった。
喫茶店に行くこともなくなった。
ミルクティーを飲みながら、何でもない話をする相手もいなくなった。
それでも、彼からは時々メッセージが届いた。
『こっちは思ったより寒い』
『駅前に新しい店ができてた』
『この前話してた映画、やっと見たよ』
私はそのたびに返信した。
以前と変わらない会話。
以前と変わらない距離。
ただ、隣に座って話すことは、もうできない。
ある夜、彼から短いメッセージが届いた。
『そっちは元気? またそっちに行くことがあったら、あの店に行こう』
私は何度も文章を読み返した。
そして、ゆっくりと返信を打った。
『うん。楽しみにしてる』
送信して、スマートフォンを胸に抱えた。
嬉しかった。
また会えるかもしれない。
あの店で、また向かい合って話せるかもしれない。
それだけで、明日が少し楽しみになった。
私はまだ、彼が好きだった。
もう会えなくなったわけではない。
恋人になれなかったからといって、好きだった気持ちが消えるわけでもない。
この気持ちを、無理に忘れる必要はないのかもしれない。
恋という名前をつければ、簡単だった。
好きだと伝えれば、何かが変わったのかもしれない。
けれど、名前をつけなかったからこそ、今もこうして大切に思える気持ちがある。
いつか、この想いが別の形に変わる日が来るかもしれない。
彼ではない誰かを、好きになる日が来るかもしれない。
それでも今は、まだ。
彼から届くメッセージに笑ってしまう自分を、否定したくなかった。
私は窓の外を見た。
街の明かりが、ひとつずつ灯り始めていた。
会えなくても、隣にいなくても、名前をつけなくても。
私の中には、確かに残っているものがある。
それを恋と呼ぶかどうかは、今は決めなくてもいい。
ただ、ひとつだけわかっている。
私は今も、彼が好きだ。
恋という名前をつければ簡単で。
名前をつけない今も、好きです。
コメント
1件
うわあ……最後、じんわり来ましたね。この「恋という名前をつければ簡単で、名前をつけない今も好き」っていうタイトル回収、すごく腑に落ちました。 主人公が彼に「行かないで」と言えなくて、ずっと友達のまま別れるシーン、すごく切なかったけど、あの距離感を守ったからこそ最後の「待ってる」に優しさが乗ってた気がします。 何より、帰ってきた彼からのメッセージに笑っちゃう自分を否定しない、ってところが僕は好きです。形を変えても消えない想いを無理に整理しない強さって、すごく人間らしいなって思いました。素敵なエピソードでした、水曜さん。